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1人でイギリスに飛び込む新生活のキックオフ🇬🇧

こんにちは!

ホッシー(hoshi)と言います。(スペル合ってる?)

この春、5年間勤めた会社を辞め、単身渡英します。というよりしました。

渡英するにあたり、改めてこれまでの歩みを振り返りつつ、これからの決意を固めるため、この文章をイギリスに向かう飛行機の中で書いています。

本記事はそんな私の自己紹介的な投稿です。

以下、簡単なプロフィールになります。

「経歴」
・サッカー歴14年、コーチ歴3年
・IT×美容業界1年
・教育業界5年
・渡英←イマココ

「趣味」
・読書
→幼少期からミステリーやファンタジー中心に読書にハマりました。その後も仕事柄、幅広いジャンルの本を読んできました。文章を書くのも好きです。

・旅
→日本41都道府県(宮崎、佐賀、岡山、鳥取、島根、高知は行けてない。。)制覇。
→世界17ヶ国に渡航。長期滞在や留学などの経験もあります。行った国は以下です。

<アジア>
フィリピン(セブ島)、台湾(台北など)、タイ(バンコク、アユタヤ、チェンマイ)、中国(北京、上海など)、インドネシア(バリ島)、ベトナム(ハノイ)、シンガポール

オーストラリア(シドニー、メルボルン)

<ヨーロッパ>
イギリス(ロンドン、マンチェスター、ボーンマス、スワネージ)、フランス(パリ)、ドイツ(ミュンヘン)、オランダ(アムステルダム、ライデン)、スペイン(バルセロナ、マドリード)、トルコ(イスタンブール)

<アメリカ大陸>
アメリカ(ニューヨーク、ボストン、ラスベガス、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ハワイ)、カナダ(バンクーバー、カルガリー、バンフ)

<中東>
アラブ首長国連邦(アブダビ、ドバイ)

「特技」
ドリブル(シザースが得意)、営業、授業制作、ファシリテーション、ワークショップ制作など

以上がざっくりとしたプロフィールです。

ここからは自身の経歴について、自分が何者であるのか言及しつつ、もう少し深堀りしてみようと思います。


経歴について

サッカー歴14年、コーチ歴3年

小学校2年生の時、父親の勧めでサッカーを始めました。父親は自主的にやりたいと言ったと証言していますが、それは存在しない記憶です。

僕の記憶では、父に半ば誘導尋問のような形で、「サッカーやりたくない?やりたい?やりたいよなぁ?」と風呂場でクロージングされたのを何となく覚えています。

以来、14年間プレイヤーとしてサッカーを続けてきました。サッカー強豪校では全くないですが、高校ではキャプテンを務めました。その後は、プロも多数輩出している大学の体育会サッカー部に入部しました。

自身の高校は強豪校ではなかったため、大学の体育会サッカー部への推薦枠などもなく、一般枠で入部。今思い出しても吐きそうになるほどキツいセレクションをなんとか通過しました。

なかなかにしんどい4年間だったのですが、プロを目指す部員や意欲的な仲間に囲まれ、かけがえのない時間を過ごすことになりました。

先輩や同期、後輩の中には、Jリーガーになった人、日本代表になった人も複数おり、そうした人たちの取り組み方や、現在の活躍を見ていると、自身もとてつもなく刺激を受けます。

サッカーは僕の人生であり、アイデンティティでもありました。これからもずっと関わるような気がしています。

IT×美容業界での1年間

大学卒業後、サッカーでプロにはなれず、就職することになります。それまで人生の大半だったサッカーを失った後、何をすれば良いのかわからず路頭に迷い、とにかく動きながら考えました。

大学四年時の就職活動は、部活動と並行しながら行い、苦戦しつつも4社から内定を頂きました。

旅が好きなので旅行業界と迷いましたが、自身の人生やサッカーに対する想いなどについて深く寄り添い、理解してくれたIT×美容業界の会社に就職。

その中の設立3期目の社内ベンチャーで内定者インターンを行い、そのまま入社します。

当時の社長とは、その後一緒にサッカーチームを立ち上げ、コーチとして指導もしていました。小学生と未就学児対象に、合計3年間の指導経験があり、その後の仕事である教育の分野への興味が育まれました。

当初はエンジニアとして入社する予定で、そのためにプログラミングなどを学んでいたのですが、結局営業職として入社。入社3日後から即現場に配属になり、全くプログラミングは使いませんでした笑

初の社会人でタイピングすらロクにできませんでしたが、徹底的なOJTで徐々に仕事に慣れていきます。その後は部活動で培われた、目標からの逆算力、行動力、負けん気などをなんとか発揮し、営業予算を毎月達成。

次第に予算が増えていき、入社半年後には新卒として半期予算達成額で記録を作りました。商材は単価約25万円の求人広告で、半期で3,460万円売り上げました。

美容業界という全く縁遠い世界でしたが、それぞれのブランドのストーリーなどを調べるのは大変に面白く、奥深かったです。部活での悔しさがモチベーションになっていたこともあり、営業はかなり自分に向いていた気がします。

加えて、それまではサッカーという自分の目標のために人生の時間を割いてきましたが、仕事で他者のために時間を割き、それによって喜んでもらえることの豊かさを感じました。

仕事の魅力を感じ始めた新卒一年目の後半でしたが、それと同時に、営業をこなすようになっている自分に対し、徐々にこのままではいけないという想いが募ります。

サッカーで悔しい想いをしたからこそ、社会に出たらもっと活躍したい、今まで以上に成長したいと思っていたからです。

商材や難易度などにもよると思いますが、営業は一度方法論を確立できると、ある程度再現性が担保でき、売り上げの見通しなども予想できるようになります。(あくまでも僕の取り組んでいた業務の場合です)

自分次第でいかようにでも伸び代を作ることはできたとは思いますが、成長角度が緩やかになってしまっているようにも感じていました。

そして同時に、副業でやっていたサッカーコーチの仕事を通し、子どもたちを教えることに大きなやりがいを感じ始めていました。

営業、ビジネスの世界では、人間として100%で向かっていったとしても、会社の事情などで突如取引が終わることもあります。

自分としては担当者の方と心を通わせられたと思っても、あくまでもビジネス上の付き合いなのかもしれないなと、少し物寂しく感じたこともありました。

しかし、子どもたちと接する仕事は違ったのです。こちら側が100%でぶつかっていけば、120%で応えてくれる。それが何よりの喜びでした。

子どもたちは自然のような存在です。自然には嘘がなく、ありのままの自分をありのまま受け入れてくれます。子どもも同じ。それが心地良かったのです。

毎週のように教えたことを吸収し、成長していく子どもたちを見て、次第に教育の仕事への興味が高まりました。

それが次のステップへと繋がっていきます。

教育業界での5年間

平日は営業の仕事、休日はサッカーコーチとして働いてしばらくした頃、次なる転機が訪れます。

共にサッカーチームを立ち上げた会社の代表が、お子さんが通っている塾を紹介してくれたのです。

それがこちらの探究学舎という塾。

当時、スポーツ現場における体罰などが問題視されていたタイミングだったこともあり、厳しく高圧的に指導するのではなく、子どもたちのやりたい!という内発的な動機を引き出す指導について研究していました。

僕自身も内発的な動機、喜びからサッカーをやりたいと思っていたタイプだったので、そういったチームにしようと意識して運営していました。

そんな時に出会ったのが、こちらの探究学舎。

様々な学問に興味が持てるように、好奇心を刺激するオリジナル授業を制作している塾です。

幼少期の好奇心旺盛な自分を思い出すと同時に、とても意義深いことをやっているなと感じたのを覚えています。

その後、色々な偶然と縁が重なり、新卒11ヶ月目にして営業の仕事を後任の方に引き継ぎ、探究学舎に入社することになります。

新卒で入社した会社は大変良い会社で、右も左もわからない中、本当にお世話になりました。せめてもの貢献をということで、最後の月まで営業予算は達成し続け、新卒一年目の2月末に退社しました。

そのまま3月頭に切れ目なく探究学舎に入社した後は、サッカーコーチを続けつつ、当時拡大期だった環境下で、様々な経験を積むこととなります。

入社した3月時点では社員が10名ほどで、サービスの受講者は約500人でした。長期休みは全国各地から受講生がやってきたり、出張授業なども多数やっていましたが、基本的に校舎は一校舎しかなく、リアル授業のみ展開していました。

しかしながら、入社してすぐに情熱大陸に代表が出演したり、その後もメディアへの露出が増えるなど、注目が集まっているタイミングでした。

そのため、入社初年度の夏には全国に出張授業に繰り出し、北海道、東京、名古屋、大阪、広島、鹿児島などなど、全国各地のホール会場をかりて、総勢約4000人に授業を届けてまわったりもしました。

一年目からこうしたイベントの責任者を務めさせてもらったり、書籍出版に携わったり、広報としてメディア対応やSNSマーケティングをしたり、HPや授業制作に携わったり、幅広い仕事にチャレンジさせてもらえて、本当に良かったと思っています。

圧倒的な刺激が次から次へとやってくるので、毎日が楽しくて仕方がありませんでした。何より、日々授業で子どもたちと触れ合うことに強いやりがいを感じていました。

しかし、入社約1年後、最大の危機が訪れます。それこそが、新型コロナウィルスです。

全国の小学校は一斉に休校。当然ながら、塾の校舎も閉鎖せざるを得なくなります。先行きの見えない不安の中、日々増えていく感染者数。

さらにバットタイミングなことに、この時期は新教室に移転しようとしていたタイミングでもありました。

予算を投じて大規模な移転をしたにも関わらず、子どもたちを迎え入れることすらできなくなってしまったのです。

そんな絶対絶滅の状況の中、起死回生の一手として投じられたのが、休校中の生徒たちに向けたオンラインでの無料授業配信。

それまで制作してきた様々な授業の中で、選りすぐりのものを無料で3週間届け続けました。

自分たちの会社を存続させることももちろん重要。しかしそれだけではなく、まずは全国の不安に苛まれている生徒たちのため、自分たちにできることをやろうという決断でした。

先頭に立った代表はじめ、これは大変な英断だったと思います。全社員が一丸となって、がむしゃらになって走り抜けた3週間でした。

当時の様子は以下のnoteなどにまとめているので、もしよろしければご覧ください。

この全身全霊の無料授業の結果、その後展開することになったオンライン授業の受講者数が激増し、500人だった受講生が一気に2000人にまで増えました。

そこからは、オンライン授業を主軸に様々なサービスを展開し、今まで以上に多くの生徒や保護者とつながることになります。

僕自身もコロナの終息ののち、全国各地、全世界の生徒に会うために旅をしました。画面上でしか会えていなかった生徒や保護者の皆様と、ようやく直接交流することができたのです。営業の時から、一期一会である人との出会いを大切にしたいと思っています。

また、入社して2年後には授業制作と講師も担当するようになり、リアル、オンライン問わず、小学生から中高生まで沢山の生徒に授業を届け続けてきました。

どの仕事も楽しく、やりがいがあったのですが、中でも講師として生徒たちに授業を届けるのは、この上なく幸せでした。

目の前で喜んでくれる生徒たち、授業の内容に興味を持ってその後も調べ続けている様子、普段なかなか発言しない子が教室で輝く瞬間など、忘れられないシーンが沢山あります。

子どもたちだけではなく、親御さんも一緒に授業を楽しんでくださり、この仕事を通してたくさんの人たちとご縁がつながりました。

最後の2年は、授業制作と講師に加え、中高生事業の責任者を務めたり、経営企画室に所属するなど、会社の流れを見る経験も積むことができました。

これまで探究学舎で取り組んだ仕事の一部は、以下のマガジンにまとめたので、どんな授業やサービスなのか気になった方は、是非見てみてください。

仕事に充実感を感じていた3年目でしたが、ここで再び転機が訪れます。

それが、育ての親である祖父の死です。自分は両親が共働きだったので、小さい頃から祖父母にお世話になっていました。

そんな恩人でもある祖父が、パーキンソン病という難病を患い、亡くなったのです。

命日は、自分の誕生日の翌日。誕生日だったからこそ、久しぶりに祖父に顔を見せに帰っていました。その時ふと、なんだかこれが最後になるかもしれない。考えたくはないけれども、そんな気がしました。

翌日仕事に戻り、出張先の軽井沢の冷たい空気に触れた時、虫の知らせのようなものを感じました。祖父に見せようと、軽井沢の美しい景色を写真で撮影したのを覚えています。

しかし、そのすぐ後、祖父が亡くなったという知らせが入りました。

偶然かもしれないけれど、最期に祖父に会わせてもらえたのではないかとも思います。

身近な家族を失うのはこの時が初めてでした。大きな喪失感、涙に暮れる祖母を見て、いたたまれない気持ちになったことを覚えています。

しかし、大好きな自宅で家族に看取られて旅立った祖父は、最期まで幸せな人生を送れたとも言えるのではないでしょうか。

そんな祖父が僕にかけてくれた言葉で、印象的なものがあります。

「お前がしている程度の努力はみんなしている」

戦争を経験し、若くして母を亡くした祖父は苦労人でした。寡黙で実直で家庭を愛し、家族に尽くす人でした。

こうした言葉からは、祖父の人生の重みを感じます。そして、自分の物事に対する取り組み方を見直す機会をくれます。そんな祖父の分も、しっかり生きなければなと思わせてくれるのです。

渡英

こうした背景から、現状に満足せず、再び挑戦をしたいという想いが募るようになります。

引き続き授業制作や講師などをやっていきたいと思いつつ、同時に自分の見える世界の幅を広げたり、新たな挑戦をして人間としての深みを出すことが、巡り巡って生徒たちのためにもなるのではないかと考えるようになりました。

リスクを取れる内に一度この環境から飛び出し、もっと広い世界を見た方が良いのではないか。今の環境では破れない殻が、心の中にあるような気もしていました。

自分はこの仕事が好きで、子どもと関わる仕事は生涯やっても良い分野だなと感じています。

しかしながら、生涯現役で働き続けると考えた時、出生率は過去最小。少子高齢化も加速しているのが今の日本です。特に教育業界においては、働く個人としても、会社としても今まで以上に変化を求められるであろうと思います。世界と関わる機会も増えていくはずです。

実際に教えている生徒の中には、海外の高校や大学に進学していく生徒もいました。日本だけで仕事ができるのと、海外でも働けるのとでは、その後の可能性も大きく変わるでしょう。

そうした社会情勢もあり、コロナで閉ざされていた世界の窓を、再び覗いてみたいと徐々に感じるようになっていきました。

そこで、昨年の休みと有給を上手く使い、コロナ後の世界がどうなっているのか、自分の目で確かめに行きました。

ヨーロッパ、アジア、アメリカやカナダ。様々な場所を旅する中で、次第に自分も世界に飛び出してみたいと感じるようになっていきます。

そして、昨今の生成AIをはじめとする技術の著しい進化も、その気持ちを後押ししました。普段から情報収集し続けていましたが、この分野が教育のあり方も大きく変えるであろうことは容易に想像がつきました。

では、これから先の世界を生き抜いていくために必要なことはなんなのか。世界は今どうなっているのか。そして、自分はどうありたいのか。どうあれば、説得力を持って子どもたちにこれからの世界や未来の働き方について語れるのか。

様々なことを考えた結果、次なる挑戦として、自分自身が世界に出てみること、単身海外に飛び込んでみることを決断するに至りました。

これまで仕事では、常にその時のベストを尽くし、成長し続けられるよう心がけてはきましたが、環境や立ち位置を大きく変えることが、自身を成長させてくれたこともありました。

大学でサッカー部に飛び込んだ時のような、新卒入社や転職した時のような、新鮮なガムシャラさを取り戻したい。守りに入らず、攻めに転じ続ける人生にしたい。人生にゲーゲンプレスかけ続けたい。自分の世界や影響範囲を常に広げ続けていきたい。今、そんな想いです。

何をしたいかもそうですが、どう生きたいかを軸に決めた部分が大きかったように思います。

世界に出て働いてみること、リスクを取って挑戦してみること。この決断が、誰かに伝えられることの幅と深さを作ってくれると信じて。

ということで、色々な国や方法を調べ、一旦イギリスを渡航先に決めました。YMSという2年間現地で働けるビザを取得したので、まずは飛び込んでみます。

ずっと携わってきた教育やスポーツの分野を中心に、幅広い可能性を見据えながら、次なるチャレンジを模索してみます。

そして、これまで関わってくれた人たち、これから興味を持って見てくれる人たちに向けて、自分が見たこと、経験したことなどを今後も発信していきたいと思います。

ただ、ここまで色々書いてきましたが、賢い人たちからしたら、正直この決断は無謀に見えるでしょう。キャリアを賢く積み上げるなら、もっと色々なチャレンジの仕方があるはずですし、イギリスで働く条件は、現状かなり厳しかったりもします。

それに、まだまだ自分は甘いところ、至らないところだらけです。英語はビジネスレベルではないし、人付き合いも下手だし、家庭も無ければ、引き止める彼女もいない笑

ぶっちゃけ自分は、この世界では吹けば飛ぶようなちっぽけな存在。現地では相当苦労するだろうし、自分の人生、キャリア総動員でやって太刀打ちできるかどうか。

でも、だからこそ頑張ります。

自身の生き方や決断を肯定できるように、人生の印象的な1ページになるようにします。

これからも太く長く楽しく、前向きに人生と向き合いたいのです。

めちゃくちゃに長い、自己紹介!?らしきものを最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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Hoshi
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