ぼくは学校でのいじり、いじられにどう向き合うのか

すてきな文章でした。あんまりまとまらないけど、感想というか決意というかとりあえず公開。後悔するかも。

ぼくは「いじり」があまり好きではありません。同僚の間でも「いじり」をする人もいるが、そんなときいつもなんとも言えない気持ちになります。あとで「あれ、いいの?」と聞いたりすると「いいんです」と帰ってきます。彼と彼の間では何かOKのような感じがあるのだろうかと思いながらも釈然としないものを抱え続けていたりもします。

テレビの影響は大きなもので、子どもたちも教室で「いじり」あったりします。いじられている子どもの顔をよく見ながら、「それはひどいんちゃう?」とか「いいの?」とか声をかけることが多いです。
「テレビの人たちはあれでお金もらってんねんで。だから友だち同士でするようなことちがう」本人がつらそうなときにはそんな話をすることもありました。ちなみに、本人がつらそうなときは、もういじめですよね。

そんなことを書いているぼく自身も自分のちょっとぽっちゃりしたお腹を子どもたちに叩かれる(叩かせる?)毎日です。それはOKにしています。これで子どもとのコミュニケーションを深めていると言ってもいいくらいです。勝手なものです。「友だちどうしではアカンで」といつも言っています。

村本大輔さんの文章にある「逆手にとって笑いにかえる」というのにはっとしました。そうだよねえ。そんな風に決意した人たちにとって、ぼくの「大丈夫?」は大きなお世話なのかもしれないなあ。でも、その子どもの本当の気持ちなんて、わからないわけで。もしかしたら、決意はしたけど、途中で心がおれてしまうことだってあるわけで。だからやっぱり大きなお世話は続けていかないかんかなあと思うわけです。

テレビが自主規制するべきなのか、子どもたちの世界へ関わる大人がもっと考えるのか。テレビが自主規制しても子どもたちの世界も人間関係、いろいろあるわけです。だから、テレビはテレビ、学校は学校、そして、あいつとオレの関係はこれ!って感じになればいいのだろうか。うまく通じあっていない時もあるかもしれないけど、それはそれで解決していけるといいのかなあ。

ある芸人のお父さんがなくなったときのエピソードはすごいなあと思いました。そんなときに、「いじる」のはとても勇気がいるだろうし、でも、おれはこれでこいつを救えるって確信があるからいえるのだろうなあと思います。ぼくには、とてもできそうにないなあ。寄り添うことしかできそうにありません。

いじられている子どもがいれば、つらそうでも、つらそうでなくても、「大丈夫」「いいのか」「つらくなったらいつでも言ってや」ということしかできません。ぼくは、一緒にいじることはないと思います。なんかノリ悪いなあと思われても「そこに愛はあるのかい?」そして「その愛は伝わっているのかい?」と子どもに問いかけ、一緒に考え続けようと思います。

大人同士の世界でもやっぱりいじるのも、いじられるのも苦手です。でも、「アゴ」という武器を彼から奪うのはだめだなあと思います。

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