恐れることがコワいのではないのです。
恐れることがコワいのではないのです。
2年前の梅雨明け。
はじめて鞍なし、手綱なしで、裸馬のルーカスに乗ったときは、
正直、相当コワかったです。
「ルーカスが急に走り出したらどうしよう。」
すがるものがないのですから、落馬しかありません。
恐怖です。
それまでの信頼?
恐怖におののいているときは、正直、信頼さえ忘れますよ。
一番大切な信頼を忘れてしまいます。
そばに誰かいてくれて、ルーカスに声をかけてくれたり、
私に声をかけてくれれば・・・。
いえいえ、何もしなくても、
誰かそばにいてくれるだけで、私はきっと冷静でいられたでしょう。
ルーカスとの信頼を忘れることはなかったでしょう。
でも、私は誰もいないときにこれをやりました。
馬上でひとり、恐怖に取り憑かれ、信頼を忘れてしまいました。
うっ!息が苦しい・・・
恐怖心だけでは我に戻れませんでした。
恐怖で体が萎縮して、息が苦しくなって、
身体が反応してはじめて、恐怖を自覚できました。
恐怖を自覚してはじめて、恐怖に向き合うことが出来ました。
はっ!呼吸だ。呼吸。我に返るんだ!
呼吸すること。
我に返ること。
例えて言うなら、
水深30Cmの砂浜で、死にそうになって溺れていたことに気がつくこと。
裸馬のルーカスの背中で、静かに呼吸しました。
ただただ、呼吸をしました。
ずっと静かに呼吸をしていると、いろんな疑問が湧いてきます。
そもそも、なぜ、こんな意味もないことにチャレンジしたのか。
裸馬に乗って、なんの意味があるのか。
馬上で静かに呼吸を繰り返します。
あ、
みんなにかっこいいとこ見せよう!
もしかして、こころの底はソレ?
「私は馬と信頼関係を築きました。
信頼関係があると、手綱は無用ですよ。
裸馬でも乗れちゃいますよ。」
お前、それ虚栄心ってやつだろ。
お前の虚栄心に振り回されるルーカスやタロウさんはどんな気持ちになる?
静かに呼吸して、我が身の浅はかさに気づき、もう、恥ずかしくてルーカスの背中に跨がってなどいられません。
もう、ほんとに穴があったら入りたい。
申し訳なくて、ホントにもう、ごめんなさい!
深く反省して、静かに呼吸して、ルーカスの温かさを内股に感じ、
すっかり我に返ったら、
ルーカスは静かに歩き始めました。
ふっと右を向いただけで、ルーカスは右に歩き始めました。
息を吐いて、止まるイメージをしたら、スッと止まってくれました。
馬場をそのまま3周しました。
もう涙が止まりません。
本当にコワいのは、心が何かに囚われても、体が反応しなくなることだと思います。
体が重いとか、息が苦しいとか、胸が詰まるとか。
とにかく、何かの感情に囚われたとき、体の反応がでたら、
それはまだ大丈夫だと思います。
そんなときはすぐに呼吸をすることが大切だと、身をもって知りました。
普段、確かな手応えとともに、身に染みついているほどに感じている信頼を、一瞬で忘れてしまう。
それは信頼が消滅しているのではなく、それほどまでに自分を追い詰めてしまったのだと思います。心が。
でも、心と体は一体です。
そして体の生命維持システムはどんなときでも、自分を生かそうとして片時も休むことなく働いています。
心が何かに囚われたとき、なによりもまず信頼すべきは、
自分自身の生命維持システム。
自分の体をいたわることで、体は安心するのではないでしょうか。
「気づいてくれてありがとう。」と。
心は安心するのではないでしょうか。
「向き合ってくれてありがとう」と。
心が恐怖に囚われて、呼吸して、ごめんなさいと言っている私のことを、ルーカスはやはり、いつもどおりの優しい目で見てくれているのです。
「大丈夫、大丈夫。わかってるよ。」と。
恥ずかしい思い出にお付き合い頂き、ありがとうございました。
※「我に返る」について、こちらにも少し書いております。
ご一読頂ければ嬉しいです。