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私たちは「正しい意見」に賛成するのではない。「自分のことを尊重して、気持ちを高めてくれる、感じのいい人柄の人の意見」に賛成するのである

先日、SNSで、ある知己が行政機関の職員の対応(発言)に対し、怒りをぶちまける投稿をしていました。その上で手助け・情報提供をお願いするという内容でした。

おそらく述べている内容は「自分が正しいと信じて疑わない」と思っているだろうなというようなものでしたが、何か心から賛同できない感情が残りました。

自分自身もよくやってしまいますが、あきらかに「自分だけに、都合のよい見方(パラダイム)をしている」ところが感じられました。

そして、これもおそらくなのですが、そのような態度(発言)をした行政職員側も、そうせざるを得なかった背景・情況があったのではないかと思うのです。

何か、社会に訴えて、少しでも改善したいという時に、「がむしゃらに続ける」情熱は必ず必要だと思うのですが、同時にその思いをアウトプットする「表現の仕方」には、かなりの試行錯誤を伴う熟慮が必要であると思います。

なぜなら、表題のごとく、私たちは「正しい意見」に賛成するのではなく、「自分のことを尊重して、気持ちを高めてくれる、感じのいい人柄の人の意見」に賛成するからです。

私自身も若い頃、ただがむしゃらに主張をして、かなり叩かれた経験も一度や二度ではありませんでした。
常に経験値も低いという立場で、そのような人柄を発揮するというのも厳しい面もあるかもしれませんが、逆に真摯さや純粋さは、大きな強みになると思います。

問題は、そのようなことを教えて導いてくれる人が、どれくらいそれまでの人生でいたか、ということだと思うのです。

また、このことは個人レベルだけに限ったことではないと思います。

個人対団体、団体対行政、或いは国家対国家。
これだって結局は、感情のある人間が関与するものです。
「誰かの尊厳をないがしろにするような」主張や要求の仕方であるならば、けっして事態は好転することは無いと思います。
そのことは、まさに今の戦争状態が示しています。


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江島 達也/対州屋
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