そもそも日本以外の国では、不登校という概念がそんなに無いし、深刻な問題ではない
そもそも、このnoteだって、「こう書かなきゃならん」とか、「こんな風に書いたらマズい」なんてことはありません。
倫理的、道徳的な問題がなければ、好きに書けばいいでしょう。
でも、日本人はすぐ、「他から、どう見られているか」を気にしますね。「好き」の数が少ないとか。
また、他人の表現に、とやかく言うところがありますね。
前置きはさておき。
「牢獄?」のような田舎の高校暮らしから、北関東の教員養成大学にやっとこさ進学して、再び落ちこぼれ、自主ゼミナールで出会ったのが、オルタナティブ(別の道、やり方)教育学、あるいは教育論でした。
非常に乱暴に言うと、教育には歴史的に大きな2つの流れがあって、1つはドイツなどで盛んであった教条主義的な教育学。富国強兵を焦った明治政府が選択したのが、こっちですね。
そして、もう1つがフランスなどで盛んであった実存主義的、あるいは自由主義的な教育学です。
また、いろんな教育に対する考え方の支流があったので、いろんなタイプの学校があり、いろんなタイプの教育方法がありました。
皆さんの記憶に新しいであろう映画「リバーランズ・スルー・イット」の中では、アメリカ・モンタナ州のある牧師が午前中、家庭で子ども達に厳格な教育を施し、午後は自由に開放していたというスタイルを観ることができました。
兄のノーマン・マクリーンは、後にこの映画の原作「A river runs through it」の著者となり、またシカゴ大学の教授でもありました。
同じく、世界的なヒット作であった「ロード・オブ・ザ・リング」の原作者J・R・R・トールキンも、ひとり親で早逝した母親からの教育で才能を開花させました。こちらはイングランドです。
日本以外の国では、一口に学校と行っても、アプローチが様々です。
フリー・スクールと呼ばれる学校では、生徒の興味・関心によってカリキュラムが決まり、学校の滞在時間も厳密ではありません。
また、家庭での学習を授業時間に加算する国もあります。
要は、「教育と学校」の価値観が日本は、結構、独特だということです。
今、日本の学校も昔からはだいぶ様変わりしてきましたが、相変わらず、高校の進学校では、次のような教育ばかりをやっています。
例えば、膨大な時間をかけて、「全世界の植物の学名と産地、特徴」を全て暗記させる。
テストでは、その暗記をどれぐらい復元できたか、そのパーセンテージで合否が決まる。
でも、実際、その学生は植物の苗や種を与えられても、育てることなど一切できない。すぐに枯らしてしまう。
誇張した「例え」なんですが、今もやはり大筋は、そんな感じです。
だから芸術や文化においても、独創性に乏しく、一度誰かがやったものを、辛抱強く練習して進化させることができても、新しいスタイルを産み出すことが苦手です。
それは、日本人がそういう能力に劣るのではなく、個人のタイプや興味関心に沿った教育に出会う機会が、ほぼ奪われていたからなのだと考えます。
だからと言って学校に行かなくていいとは思いません。これは、これで解決しなければならない、重要な問題です。
しかし、少なくとも学校に行かない生徒を「不登校児」とか、「変わり者」とか、」そういう「~扱い」をしてはいけないと考えます。
十分に人格を持った一個人として尊重すべきです。