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聖母の騎士たち

聖母の騎士修道会・・・聖フランシスコ修道会の流れを組む、ポーランドで結成されたカトリック信心会で、アウシュヴィッツ(オシフェンチウム)強制収容所で他者の身代わりとなって餓死刑を受けたコルベ神父が創設者」と聞くと、特に無宗教で堕落しきった私などは、腰が引けてしまうのですが、「あの、いつも笑顔のゼノさんのいた修道会」と言えば、自然と頬もゆるみます。

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日本へ向かう前の聖母の騎士会の修道士たち。中央がコルベ神父。
左から2人目がゼノ修道士です。
すでにゼノさんらしい顔をしていますね・・・

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聖母の騎士会は、昭和5年に長崎到着後、一ヶ月後には会誌「聖母の騎士」を1万部発行するなど精力的に活動を始めます。
しかし、戦時中は、外国人ということで、憲兵隊の監視下におかれ、周囲からも石を投げられるなどのいやがらせを受けたといいます。



ついには、聖母の騎士修道士たちは熊本の収容所へ移送されますが、修道院長とゼノさん二人だけが残されます。
ゼノさんは、ポーランド時代から靴修理が得意ということで、憲兵隊の靴を修理するとう名目で長崎に残されました。
しかし、それがゆえに長崎原爆の惨状を目にすることとなります。

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一瞬にして街が焦土化。
7万人もの犠牲者。目を覆うような火傷・裂傷など重傷者の群れ。
当時知られていなかった放射能障害で苦しみながら死ぬ人々。

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解き放たれたゼノさんたちは、すぐに行動し始めます。

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もちろん宗教を問わず本当に多くの人が救済にあたりました。

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しかし、ゼノさんたちほど、復興した後も、長期間恵まれない人の元へ出向いて行って活動を続けた人は、そうはいないように思います。

ゼノ、死ぬ暇ないよ」という言葉は、よくそのことを表しています。
騎士」というものの本当の姿を見たような気がしますね。

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全国を歩いたゼノさんたちは、多くの戦災孤児たちを長崎に連れて帰りました。

これは昭和22年頃、上戸町にあった軍需工場跡のバラックで孤児たちを育てていた頃の写真です。
写真の記事には「孤児たちは、何を祈っていたのだろうか・・・」とあります。

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その場所はどこだったのか、知りたいと思い、当時お世話をしていたという日本人の修道士の方にたずねてみたのですが、その方ですら場所は思い出せないということでした。

「確か、水源地の近く」ということだけがたよりですが、戸町水源地近くのバラック工場・・・ということで昭和23年の空撮で見ると、この辺りだったのかなぁ・・・というぐらいしかわかりません。
見てもよくわかりませんね。(その後の私個人の考察では、バラックがあったのは、現在の小ヶ倉ダム前辺りだと思うのですが・・・)

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これは同じ戸町地区にある「ロザリオ保育園」です。
聖母の騎士会系の施設ではありませんが。
それにしても、この立地!私も長崎に住んでいるので、急坂には慣れていますが、ここより急な坂は、そう見たことがありません・・・・

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こういうところにも、同じ長崎のカトリックとして「不撓不屈の修道士たちの思い」を連想してしまうのは、私だけでしょうか。

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そして何より同会の、長崎に残した一番の大きな足跡というのは、ゼノさんに象徴される、あの「笑顔」なのだと思うのです。

永井 隆博士も著書「この子を残して」の中で、聖母の騎士修道士たちのことを、「あの笑顔を浮かべて走り回っている修道士たち・・・」というような形容をしています。

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笑顔の子どもたちは上戸町・聖母の騎士園の戦災孤児たちです。
この笑顔こそ、「希望」ですね!!

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江島 達也/対州屋
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