素直になれない、っていう素直さ
知人の元に生まれた赤ちゃんに会った。
生まれて間もない赤ちゃんというのは、本当に小さくて、無垢でかけがえのない存在なのだと改めて感じた。
毛布にくるまれて、顔だけちょこんとこちらに向けている。
まだ慣れない世界に目をキョロキョロさせたり、時折顔をクシャッとほころばせたり。
僕に見せてくれる表現、表情すべてが新鮮に満ちたものだった。
ずっと前にnoteで書いたけど、今年の夏にセブ島のスラム街を訪問した。
そこでも赤ちゃんに会った。
子どもが子どもの面倒をみる習慣があるようで、子どもが赤ちゃんの世話をしていた。
一人の子が「抱いてみる?」と言わんばかりにこちらに差し出してきた。
実は赤ちゃんを抱くのは初めてだった。
どんなに小さくても、健気にこの世界を生きている。
妙に感傷的になったことを思い出す。
〇
今年は素直さについてよく考えさせられた。
素直であることは僕にとって難しいことだったから。
ちょっとひねくれてて天邪鬼な僕はそんなに自己開示もしてこなかった。
誰かが理解してくれることにあまり期待していなかったからだ。
noteを書き始めてからも誰かに見られることに少し抵抗があった。
「こういうのを始めてみた」と切り出せないことも多く、自分の奥底を見せたり、感性の赴くままに書き連ねることは大変な事なんだと改めて気づいた。
だけどそんな感情も段々と薄れた。
「書いてみたんですけど」と誰かに見せることも少しずつ増えている。
「noteはnote、自分は自分」という割り切りが板についてきたのかもしれない。
書いた文章はある意味当時の自分の切れ端のようなもので、自分そのものを表現しているわけでもないし。
〇
生きていく中で、どんどん素直さを失っていく。
あんなに純粋に、生まれ落ちた世界の景色や感覚、大切な人を見つけ出そうと必死だった頃がピークだった。
打算的な事や常識を感じ取るようになり、素直さをだんだん見失っていく。
袋麺のパッケージにあるような完成形を目指しても、結局画像はイメージなのか、と諦めてしまったり。
誰かのサクセスストーリーを指でなぞって生きてみても、途中でつまづいたりすることが積み重なっていく。
そうやって勝手に失望を募らせていった。
本来は、自分が自分を越えられたか?という部分で満足感を見出していくべいなのに。
ただ、人生に対してそんな穿った見方をしていることに気づいたとき、どうにかしなきゃと思う瞬間がくる。
僕にとってそれは、大学入学後に訪れた。
取り戻そうとしたのは、どこかに置き忘れた素直さ。
自分を高めるために必要な、生まれつき持ってたはずのピース。
一朝一夕では叶わないけど、思い続けていればどこかでカチッと歯車が噛み合い始めて何かを思い出せる気がする。
それはいつかは分からないけどやるしかない。
何よりも「ちょいマシな自分」へと変化を重ねることが大切なのだと思う。
〇
「素直になれない」
それは「諦め」に近い。
だけど、進歩というのは「諦め」から始まることでもあると思う。
自分の中に残されたピースを駆使して、どうやって素直さを取り戻していくか?
そんなことに頭を駆け巡らせた一年であった。
今の自分に満足してるわけじゃない。
だけど「素直になれない、と認められる素直さ」には満足してる。
だから、また来年頑張ればいいのである。