「ルック・アップ」でなく、「ドント・ルック・アップ」。映画のタイトルが示唆すること
ほんとうに「ひどい」映画だった。
レオナルド・ディカプリオさんが主演、Netflix製作の映画「ドント・ルック・アップ」。「ひどい」と書いたのは内容の出来のことではない。ブラック・コメディというフォーマットの中で、とても鮮やかに「いま」を風刺して描かれており、描かれている世界がものすごく「ひどい」という意味だ。
何より悲しいことは、それが現実だということ。
クレイジーで馬鹿馬鹿しい描写が満載。笑えるはずなのに笑えないのは、それに近しいことが現実に起こっているからだ。その妙味に、世界中の人たちが「面白さ」を感じている。
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ひょんなことから発見した彗星が、半年後に地球に衝突し、人類を滅亡させる。天文学者たちが世界中にその事実を伝えようと奔走するも、まともに取り合わない人たちによって翻弄されるという話。
出来の悪いSF作品のようなテーマだが、めちゃくちゃ豪華なスタッフとキャストが「実話に基づくかもしれない物語」を全力で作ったことで話題になった。
どこかで見たことのあるようなアメリカ大統領と、その取り巻きたち。新自由主義の象徴のようなテック企業のCEOが「経済効果が大きい」と主張する。ポピュリズムに騙され、壊滅的な被害を受けるまで「現状維持」の幻想を信じ続ける民衆。
現実社会と、何が違うのだろう。
現実社会と何も違わないことがヒットの理由になるなんて、それこそ痛烈な皮肉である。
世の中の諸問題に関して、それなりの時間とリソースと知恵があるのに、なぜ事態は改善ないし解決に向かわないのだろうか。
面白いからこそ、頭が痛くなる。
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さて、この映画のタイトルは「ドント・ルック・アップ」だ。
実は同じような熱量で「ルック・アップ」と唱える人たちもいた。同じくらいの規模の人たちだ。
だが、この映画のタイトルには「ドント・ルック・アップ」が採用された。監督を務めたアダム・マッケイさんの意図は「正しさは敗北する」ということなのか。それではあまりに希望がない。
だからこそ深読みしてみたい。監督が示したかったのは、映画と現実との対比だったのではないか。
映画はあくまでフィクションだ。
つまり、フィクションとしての「ドント・ルック・アップ」。現実としての「ルック・アップ」。
フェイクニュースやデマとは、見方を変えれば、発信者による物語化だ。フィクションを現実に近付けるのは良いが、現実をフィクションに近付けてはいけない。(そう考えると、主人公が事実やデータを重視する科学者であることは合点がいく)
人生は一度きりだから、あなたが、あなたの「推し」による耳障りの良いフィクションを信じたって構わない。それらは分かりやすくて、あなたの価値観に直接響いて気持ち良いものだ。
だが、フィクションとは所詮、虚構である。虚構を通じて現実を学ぶのは有意義だけど、虚構と現実を同一化することには何の意義もない。
右も左も関係なく、そのことだけは訴え続けていきたい。
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(Netflixで観ることができます)
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