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夢のあらわれを、4年ごとに期待するだけで良いのか(映画「東京オリンピック」を観て)

市川崑が総監督を務めた、1964年東京オリンピックの映像作品。

Amazon Prime Videoで配信されていたので視聴した。

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僕は2021年の東京オリンピック・パラリンピック開催に反対していた。

一連の組織委員会の対応などを見て、すっかり「オリンピック嫌い」になってしまった。本来、「好き嫌い」で語るものではない。だが、このままいくとスポーツそのものが嫌いになりそうだったので、ある意味で、自覚的にスケープゴートを仕立てておきたいという側面もある。(という個人的事情もあるので、ここまでの「好き嫌い」の言及はご容赦いただきたい)

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その上で「東京オリンピック」を鑑賞したのは、1964年の東京オリンピックがもたらしたもの、もたらさなかったものについて、断片的にでも知りたいと思ったからだ。

現在語られる1964年ではない。当時に作られた映像作品は、当時の世相などをダイレクトに反映しているはずだと思ったからだ。2021年の喧騒と比較した上で、時代性のようなものを捉えたかった。

終戦から20年足らず、初のアジア開催のオリンピック

1964年の東京オリンピックは、終戦から20年足らずのタイミングで開催された。

ナレーションは「世界からこんなにたくさんの外国人が集まったのは初めてだ。ようこそ、世界のお客さま」と語る。広島の原爆ドームを背に、聖火ランナーが走っている映像。

20年前は敵味方として分断されていたのに、オリンピックというイベントで連帯したかのように見える。当時のお客さんの中には、アメリカをはじめ、敵だった国に身内を殺された人もたくさんいただろう。

にも関わらず、映像に映る人々は熱狂している。

分断を超えて、連帯を生み出すことができる──それは確かにオリンピックの意義だったのだろうと感じた。

高度経済成長期を象徴するようなイベント

CITIUS, ALTIUS, FORTIUS(より速く、より高く、より強く)

開会式で、電光掲示板に描かれたメッセージだ。高度経済成長期を象徴するような言葉であり、勝者やナンバーワンに最も価値があったことを示している。

映像の中では、周回遅れになったランナーや、独立したばかりの国の参加者の様子なども描かれている。それらは実に牧歌的だ。しかし大半の映像は「いかに勝つか」にフォーカスされていたように思う。

負けても良い。

そんな気持ちで試合に臨むアスリートはいないけれど、勝利至上主義の成功体験が、もしかしたら、現代に至るまで引き継がれているのではないかという息苦しさを感じたのも、正直な所感である。

オリンピックは人類の持っている夢のあらわれである

いちばん最初のメッセージに、僕は軽く目眩がした。

夢、という曖昧模糊な存在に対する、ちょっとした嫌悪感を持っていたからだ。

だが、監督を務めた市川崑が、深いメッセージを込めていたことを最後に知ることになる。閉会式では、各国の選手たちが肩を抱き合いながら行進するなど、わちゃわちゃと国という垣根を超えた盛り上がりを見せていた。

真剣勝負の後の、ノーサイド感。ああ、こういうのがスポーツの喜びだよなと、思えるシーンだった。

閉会式も終わり、聖火が徐々に消えていく。そこに市川崑は、こんなメッセージを添えた。

聖火は太陽へ帰った
人類は4年ごとに夢をみる
この創られた平和を夢で終わらせていゞのであろうか

オリンピックにおける夢を肯定しながらも、「でも、これって人工的につくられた夢に過ぎないよね」と批判する。この批評的な態度こそ、本作が後のオリンピックの映像作品作りに受け継がれていった故ではないかと思うのだ。

2022年6月に、河瀬直美さんが監督を務めた、東京2020の公式映画が公開になる。どんな仕上がりになるのか、河瀬さんが何を伝えようとして、何を伝えようとしなかったのか。

ただ単に、感動の再生産で終わらせてはいけない。オリンピックには光と影が存在する。それをどのように投影していたのかを知り、健全な批判を語るのは、後世への財産にもなっていくはず。

そんなことを、市川崑さんが手掛けた「東京オリンピック」から見出すことができた。

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ほりそう / 堀 聡太
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