突然、難聴になったら(映画「サウンド・オブ・メタル」を観て)
東京・荻窪に「JINO」という補聴器・補聴援助機器販売を行なっているお店がある。
少し前に、代表の郷司智子さんと話をする機会に恵まれた。「聞こえ」に関して、世間にたくさんの誤解が存在するらしい。
例えば、多くの人が、「聞こえない人は無音の世界にいる」と誤解している。でもそんな単純なものではない。先天性・後天性という聞こえづらさもあれば、晴天時や雨天時に聞こえ方が変わるというのもある。
実に、彼らの「聞こえ」には、150種類以上の個別事情が存在するのだ。にも関わらず、ざっくりとした尺度で補聴器は提供されており、結果的として補聴器に満足しているユーザーは少数に留まるのだという。
郷司さんは補聴器の仕事を通じて、「障がい」という概念そのものをなくしたいと語っていた。
視力の低い人たちは、眼鏡やコンタクトレンズで視力が補われている。昔は「見えにくいこと=障がい」と捉えれていただろう。しかし今や、多少視力が低いくらいでは「障がい」とは見做されない。
「聞こえ」の課題に関しても、同じような未来が描けるのではないか。郷司さんは本気で考えている。
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さて、本日のnoteは、映画「サウンド・オブ・メタル」について。
ハードコアバンドでドラムを叩いた主人公が、突発性難聴のために音が聞こえなくなるという話だ。
バンド活動もキャンセルを余儀なくされ、自暴自棄になってしまう。一度失った聴力は二度と取り戻せない。耳の手術には高額の費用が必要になる。恋人と離れて、ろう者コミュニティの中で暮らさざるを得なくなる。
始めのうちは手話もできなかったが、周囲の環境のおかげで徐々に回復を遂げていく。回復、というのは、聴力を維持できるということだ。周りから信頼され、ポール・レイシー演じるコミュニティのリーダー・ジョーから「ずっとここで生活しないか」と提案を受ける。
ろう者コミュニティという「静寂」の中で平和裡に過ごし続けること。その可能性を想像した途端、未練に思っていた恋人や音楽への想いが蘇ってしまう。自分はどう生きるべきか、難聴をきっかけに人生の意味を問い直すという筋書きだ。
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突発性難聴に留まらず、人間は、誰しも病気を患う可能性がある。
自分が、あるいは大切な家族が病気になれば、穏やかなままではいられない。
そして何より、人間は、誰しも老いていく。
ボーヴォワールが『老い』で語っているように、老いを避けることはできない。実際に身体的機能の多くが衰えていくし、認知症の発症も免れることは難しい。
そういった状況を、なかなか想像できないのが人間の常だ。
多くの人が「穏やかに死ぬ」結末を望んでいる。でも残念ながら、僕らはBプランやCプランも到来する。そのときの備えをどうするか。
それに加えて、障がいをどのように「環境」のひとりとして向き合っていくかも問われているのではないだろうか。
障がいとはマイノリティだから考慮に入れないで良いわけがない。無自覚に障がいを患っていることもあるし、そもそも障がいとはマイノリティではないのだけど。
ラストシーン、主人公は、全ての状況を受け入れる。
静寂自体には、希望の色も、絶望の色もついてはいない。静寂を受け入れるかどうかは、その人次第だ。
僕だったら、どうだろう。前向きな気持ちを持ち続けられるだろうか。
人生に「if」はないけれど、映画を通じて、そんな問いに向き合ってみてはいかがだろうか。
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(Amazon Prime Videoで観ることができます)
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