衝動を抑える必要がどこにある?〜どこまでもチャゼルっぽい映画「バビロン」〜
ようやく仕事がひと段落し、先ほど映画「バビロン」を鑑賞した。
僕の最終的な感想は後述しているが、鑑賞中は「全然チャゼルっぽくない作品だな」と思っていた。だがしばらく余韻に浸っていると「ああ、あれが結局、チャゼルの世界なんだなあ」と思い至ってくるから不思議だ。
「ラ・ラ・ランド」よりも「セッション」よりも、ずっとチャゼルっぽい。チャゼルっぽいって何だよ?と言われると困るのだが、まあ「言わせておけ」って感じである。主要な映画賞に引っ掛からなかったのも理解できるが、おそらくこういう作品を作らずにはいられなかったんだろう。
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何を書こうか迷ったが、「衝動」を軸に書き進めることにする。
チャゼルがあえて映画をカオス的に描いたのは、チャゼル自身がこの映画で描かれているようなシーンを描きたいという衝動がもともとあったと僕は解釈している。
大男がネズミを喰らうという、かなり耐え難いシーンも、この機会に表現してしまったのだろう。そのチャレンジに一応の敬意は込めつつ、それぞれの登場人物の「衝動」を記してみたい。
ディエゴ・カルバの場合(as マニー)
ほぼ新人に近いディエゴ・ガルバを「詩人のようだった」と起用理由に挙げたチャゼルだが、いわゆる夢を掴んだ人物として9割近くは好青年として描かれていた。
おそらく大半の鑑賞者は彼に肩入れしながら映画を観ていたのではないか。登場人物の中でひときわ「凡人」、ただ映画というものづくりには並々ならぬ想いを抱くキャラクター。その想いは、ネリーとの出会いなどを通して、衝動へと変わっていく。
人間は想いだけでは大成しない。「こうせざるを得なかった」という衝動があってこそ、何か形作れるようになるのではないか。
マーゴット・ロビーの場合(as ネリー)
ネリーは最初から「私はスター」と言って憚らなかった。
実際、無声映画のヒロインの資質はあったのだろう。野生児としての彼女は、どこまでも奔放で魅力的だった。僕も彼女が一番好きなキャラクターだった。
彼女にとっての衝動は「ここではないどこか」へ行くこと。彼女にとって女優とは、「ここではないどこか」へ行くための手段だった。だからそれが崩れそうになればドラッグやギャンブルへと走ってしまう。
危うさと隣り合わせ。マニーとは正反対の衝動。自分にはないものを持っていると思ったから、マニーは彼女に惹かれたんだろう。その気持ちはすごくよく分かる。
ブラッド・ピットの場合(as ジャック)
彼にとっての衝動は「スターになること」だった。
ネリーは手段としてスターを捉えていたが、ジャックは「スターになること」にとことん拘っていた。そして実際に夢を叶えたからこそ、衝動を保ち続けたいと願ったのだろう。
それが叶わぬことだと知って絶望するのだが、誰に彼の選択を咎めることができるだろうか。
年齢を重ねれば相応の生き方を見出せるなんて、幻想に過ぎない。ひとは誰でも「今が最盛期」だと思いたい。だって「あの頃は良かった」なんてノスタルジーに浸るなんて格好悪いじゃないか。そう思っている時点で、既に格好悪いのだけど。
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ということで、簡単だがそれぞれの衝動を紹介してみた。彼ら以外にも「映画を撮りたい」とか「超危ういものと共存していたい」とか、山のような衝動の数々が描かれている。
だからこそこの映画は、カオスにしか着地し得なかったのだろう。
映画は賛否両論ある通り、僕自身も「好きなところ」「そうでないところ」がクッキリ分かれた。だが、ジャスティン・ハーウィッツの音楽は文句のつけどころがない。
さすが「セッション」からいまに至るまで、デイミアン・チャゼルとタッグを組んできただけあって、チャゼル作品のダイナミズムを体現している。1曲目の「Welcome」を聴くだけで、映画のトーン&マナーは理解いただけるだろう。
カオス映画とは、まさに「バビロン」のような映画のことを指すのである。
(映画館で観ました)
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