人間は、どこまで狂えるのか(映画「空白」を観て)
狂う。
近年この言葉が「褒め言葉」として使われることが増えてきた。
Appleの有名なキャンペーン「Think different」がきっかけだと思う。Crazy Ones(イカれた人たち)の存在が称えられ、Appleプロダクトが他社製品とは一線を画すものであると印象づけた。
動画の中には、アインシュタイン、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、マハトマ・ガンジー、パブロ・ピカソなど、「常識」という枠から外れた人たちが登場している。彼らの挑戦があったからこそ、僕らの「いま」が成り立っているのだと──
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しかし、本来の意味に立ち返ったとき、「狂う」とは、文字通り狂気と隣り合わせの言葉だ。
映画「告白」で、古田新太さん演じた充は、娘の花音が事故死したことをきっかけに、内なる狂気が顕在化してしまう。
それは不幸な事故だった。しかしその事故は、狂気と共に「事件」化してしまう。
それまでの親子関係の希薄さ、花音が対人関係で問題を抱えていたこと、充という人間の身勝手さ、メディアの過剰報道……。
充の狂いようは尋常ではなかった。関係者を執拗に追い詰め、花音の死因を突き止めようとする。花音とまともな関係でなかったにも関わらず、花音の理解者であるようなフリをして。狂気と共に深くなる思い込みの様相は、加害と被害は紙一重になり得ることを示している。
ついには、事故のきっかけを作った直人(演・松坂桃李さん)はスーパーを廃業させ、事故を起こした女性(演・野村麻純さん)は自ら生命を経つ。
狂ったのは充だけではなかった。
充の狂気に呼応するように、登場人物たちは凄まじく狂っていったのだった。
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そこで、僕にひとつの疑問が生じた。
人間は狂うのか。それとも狂うことができるのか。
このnoteを可能動詞のタイトルにしている通り、ひとまず僕は、何かの / 誰かの意思によって、本人が「狂うことができる」のでは?と仮説している。
きっかけはあれど、ある水準を超えると、本人の意図によって「狂う」は深められていくのではないか。そういった意味で、狂うとは、自発性の高い行為だと僕は捉えた。(余談だが、吉田松陰は塾生に「諸君、狂いたまえ」という言葉をおくっている。松陰も、人間は自らの意思で狂うことができると考えていたのだろう)
この点について、異論があるのは承知している。
とりわけ自殺した女性について、自己責任論を助長しているように思われる気がしている。そうではない。役の中だったとはいえ、優しい彼女のことを誰かがフォローしなくてはならなかったと強く思う。
それでも自らを狂わせたのは、自らの幻想だったはずだ。幻想が膨らみ、自らが「死に至るストーリー」を構築してしまった。自らの幻想も自己に基づくものならば、やはり狂うことができるのも自分自身だったと言えるのではないか。
だが、それは決してネガティブなことばかりではない。
自分の意思によって狂えるのであれば、自分の意思によって狂うのを止められるはずだからだ。
規定していた枠を取り外し、正常なルートへと道を戻すことができる。悪意ある政治家の汚職ばかりが報道されるけれど、目を凝らしてみれば、善を志向して正義へと回帰しようとする人だっているのだ。
救いようがなかった「空白」は教訓としつつ、いまを生きる僕たちは、狂うという連鎖を食い止められるように善意を味方につけていきたい。
──
(Netflixで観ることができます)
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