ゴジラには抗えない。(映画「ゴジラ−1.0」を観て)
「ゴジラ−1.0」
(監督:山崎貴、2023年)
ようやく鑑賞したが、想像していたよりも2016年公開の「シン・ゴジラ」とは、あらゆる意味で正反対な作風で驚いた。
よく言われているのは、政治の有無だ。
「シン・ゴジラ」では政府の無能が描かれたが、最終的に残された「中央」のメンバーが結束してゴジラを撃退する。「ゴジラ−1.0」ではそもそも政治が不在である。アメリカとソ連が緊張関係にあるという“言い訳”のもと、政府はゴジラ危機に何の対応もしなかった。(いや、箝口令を敷くという最悪な意思決定はしていた)
結果的に「ゴジラ−1.0」は、「私たち」の物語になっていた。
ゴジラという強大で恐ろしい存在に対して、「私たち」は何ができるのか。真っ向から対峙するのか、それとも逃げるのか。夢と現実の間で頭を抱えた主人公の敷島(演・神木隆之介)は、作中に出てくる「私たち」をもっとも象徴した人物だったように思えた。
じゃあ物語は素晴らしかったのかというと、そうとも言えない。
一緒に鑑賞した5歳の息子は、寝ている子どもを起こさないよう家を出る敷島を見て、「(ひとりで家に放置された)あの子は大丈夫なの?」と質問を投げ掛けた。なかなか鋭い。埼玉県の自民党県議団なら真っ青なシチュエーションだ。2023年の映画において、「それでいいのか?」は結構あって。時代のせい、というには、細部の粗が結構目立ったなという印象を抱いた。
だが思うのだけれど、「ゴジラ−1.0」に関しては、そういうのはどうでも良かったんじゃないだろうか。
「生きて、抗え。」は本作のキャッチコピーだ。しかし、もはや「ゴジラ映画には抗うな。」が正解なのかもしれない。
ゴジラすげえ〜
ゴジラこわ!
ゴジラかっこいい!
ゴジラやばい
そんなゴジラを、山崎貴監督はVFXを駆使して生み出した。甲乙つけるのは野暮だが、「シン・ゴジラ」をさらに洗練させたのが「ゴジラ−1.0」のゴジラだった。
そんなゴジラを生み出しただけで、本作の価値は十分にある。いいじゃないか、ゴジラに抗えなかったとしても。
──
少しだけ補足したい。
ゴジラ=自然の側の存在だったとしたとき、人間の愚行(核開発に伴う環境破壊)に対して、自然の怒りを買い結果としてゴジラが出現したというのが「ゴジラ」1作目からの主題であろう。
最終的に「シン・ゴジラ」でも「ゴジラ−1.0」でも、人間がゴジラに打ち勝つというエンディングになっている。だがどちらも不穏な空気を醸しつつのクロージングだったことから、「まだまだ続きがあるのではないか?」と予感されるような建て付けになっているわけだ。
映画では、人間はゴジラ(自然)に勝利した。
しかし現実は終わらずに続いていく。そう考えたとき、人間は本当にゴジラ(自然)に打ち勝ったといえるだろうか。(いや、いえない)
商業的にゴジラを続けていくのは、ゴジラのIPを持っている東宝にとっては必然だ。しかし、もっともっと深い問いを、「ゴジラ」には付き纏っている。ゴジラが愛され続けている理由を、「ゴジラ−1.0」を通じて実感することができた。
またいつの日か、きっと「私たち」はゴジラに再会する。そのとき、少しでも誇りを持っていられるよう、しゃんとして生きようと思うのだ。
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