“問い”をどこに立てるべきか(映画「エマニュエル」を観て)

年始から慌ただしく、すっかり映画館がご無沙汰になっていた。ようやくレイトショーで、今年初めての映画鑑賞を。

鑑賞したのは映画「エマニュエル」。「時は現代、舞台はセレブが行き交う高級ホテルの非日常的空間。自分の欲望を見失ったエマニュエルが追い求める〈真の快感〉とは?誰もあけたことのない扉が、今開かれる──。」という宣伝文句に警戒心を抱くも、「燃ゆる女の肖像」「パリ13区」のノエミ・メルランならばと鑑賞した。

50年前に上映された「エマニエル夫人」。本作は厳密にいえばリメイクではないが、“エロティシズム”を描くという意味では同じだ。序盤から終盤まで、エマニュエルはセックス(+それに準ずる行為)の連続。それだけ聞けば、ステレオタイプな官能映画を想起させるが、映像も音楽も抑制されたトーンで、良い意味で、古き良き時代のフランス映画を感じさせる。

映画を鑑賞した日、私はちょっとした出来事が積み重なって、不安定な心持ちだった。映画館へ向かう車中も、ついスピードを上げてしまい、「いかん、いかん」と何度思ったことか。もうちょっとカジュアルな作品を観るべきだったかと思ったが、このタイミングで「エマニュエル」を観れたことは幸運だったかもしれない。

・このシーンにはどんな意味があるのか
・この人物は、主人公のエマニュエルにどんな示唆を与えているのか
・“のろまな台風”は何のメタファーとして機能しているのか
・バスタブの水を飲む行為は何を意味しているのか

なんてことを、想像しながら映画を鑑賞していた。だいたい私は、こういったスローな展開の映画になるとどこかで眠りに落ちてしまうのだが、ノエミ・メルランの表情に魅了されたこともあり、最後までじっくりと味わうことができた。

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オードレイ・ディヴァン監督は、以下の記事で「日本の男性たちもどのような反応をされるのか」と興味を示している。

本作に限らずだが、女性が主人公の映画において、男性は何を立脚点として置くかは確かに重要かつポピュラーな視点だろう。

エマニュエルに自己を投影する男性もいるだろうが、おそらくは少数派だろう。男性であれば、俯瞰して登場人物の”動向”を追う見方が大半を占めるのではないだろうか。

正直なところ、私は2024年に公開された某日本映画を思い出した。

その作品は映画批評家の中では絶賛されているが、主演俳優の演技力によって成立している部分が多く、私はディレクションも脚本も出来の悪さが際立っているとしか思えなかった。今作はそこまで極端に酷くはないものの、ノエミ・メルランの、映画に対する敬意というスタンスに助けられた部分も多いのではないか。

オーガニズムに関する固定観念や、性向をデフォルメした描き方など、冷静に考えると見るに堪えないシーンも多かったように思う。ただ、それを感じさせないのはノエミ・メルランだけでなく、撮影や音楽、編集、照明といった役割も非常に大きく、であるならばディレクションの力であるともいえるわけで、なかなか評価が難しい作品だなという印象だ。

……と歯切れが悪いのだが、私が気になるのは、「問い」の立て甲斐がないということ。取ってつけたような(手垢がついたような)問いを立てることは可能だが、もはや議論は何周もされ尽くしている。理屈をこねて”新しさ”を喧伝することもできようが、私はその流れに乗りたくはない。

主人公はホテルの“粗”を探すために奔走していたが、私もまた本作の“良いところ”を探そうと懸命になっている。そんな作品を、私は優れていると評価することは到底できそうにないのである。

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堀聡太
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