「どうすればよかったか」という問いが生まれる前に。(映画「どうすればよかったか?」を観て)
医学部に進学した姉が、統合失調症(が疑われる症状)を罹患。しかし両親は“精神疾患”を認めず、25年間も精神科の受診から遠ざけてしまう。
20年以上、家族にカメラを向けて対話を重ねたドキュメンタリー。
老いる両親、残される家族。そして受診を許されなかった姉。
「誰が悪かったか?」ではない。
「どうすればよかったか?」という問い。
どうすればよかったのだろう。映画鑑賞した後、同じ立場に立ったとしたら、私も悔恨の思いに駆られそうで胸が苦しくなった。
「どうすればよかったか?」
(監督:藤野知明、2024年)
──
この作品を鑑賞したある方が、「(姉の疾患に関して)誰も責任をとらなかった」というポストをしていた。
確かに父も母も、監督である藤野さんも、「姉を家から引きずり出してまで精神科に連れていかなかった」という見方もあるだろう。だが、そんなに単純な話だろうかと私は思った。
生きていれば、色々なことがある。
例えば私の社会人としてのキャリア。2007年から働き始めて、もうすぐ丸18年になる。そのうち3年半は独立し、会社経営を行なっているが、「もうちょっと早く、計画的に行動しておけば良かったな」と考えることが少なくない。
だが、これは「自分の責任下において、自らのキャリアを冷静に考えられなかった」ことと同じだろうか。同じかもしれない。だが、これを健全に後悔すべき事項として俎上にあげられたとしたら、私は頭を抱えるだろう。実際、過ぎたことは仕方ないし、その過程においても大切な方々と知り合い、自分なりに経験を積んだことができたと思っている。
「姉の人生はどうなるんだ」という見方もあるが、両親も自らの責任感、使命感をもって、そのときは正しい(と思われる)判断をしたのではないか。実のところ、両親は大学の研究職であり、かなり知力の高い人たちだったのだと推察できる。そんな彼らが、結果的に致命的な“ミス”を犯してしまった。それを責任感の欠如と言い切ることは、私にはできない。
*
幸せとは、なんだろうかと思う。
2008年精神科を受診し、自分に合う薬が見つかった後、姉の体調はグッと良くなった。外に散歩に出掛けることも増えた。父と、近所のお祭りに足を運び、ふたりが花火を見つめるシーンに、「ああ、ふたりは束の間の幸せを味わっているのかもしれない」と思わされた。
だが、年の流れというのが残酷で、父は82歳になり、姉は50歳になっていた。父の腰は曲がり、そして姉の髪には白いものが目立つようになって。誰も年月の流れについては言及しないけれど、映像を通じて、年月の流れを感じさせるシーンになっていたように思う。
私たちは幸せになるために生きているのか。
もしそうだとしたら、幸せになったときというのは、すでに加齢しあらゆる可能性が狭まってしまったことを意味するのかもしれない。
「今ここ」の幸せを、藤野さんの家族はどれだけ感じていたのだろうか。姉のピースサインの無邪気さを見るにつけ、私が思うよりも多く、彼らが幸せを感じ続けていたことを願うばかりである。
──
胸を締め付けるのは、映画のラストシーン。
藤野さんが年老いた父に、「どうすればよかった?」と問う場面だ。
父は具体的な明言は避け、自分(たち)のした行為に対してポツリと言葉を発する。その言葉を聞いた瞬間、藤野さんの身体に一瞬、緊張が走ったようにみえた。
彼にとって、姉の62年間はどんな人生だったと思っているのだろう。いや、その問いに向き合うための思考力を、彼は残念ながら失っているようにみえた。
どうすればよかったか。
その問いが生まれる前に、正しい(と思われる)判断をしなければならなかったのだろう。どんなときも、どんなことも。
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