映画「怪物」、人間の性と対話。そして生まれ変わる物事のゆくえ。
映画「怪物」をようやく観ました。
なるべく前情報を入れずに鑑賞したら、永山瑛太さん演じる小学校教師の名前が「ほり(漢字では「保利」と記す)で、ちょっとびっくり。
未鑑賞の方もいると思いますが、心に残ることがたくさんあったので、備忘録として記しておきたいと思います。
「怪物」を探してしまう人間の性
これは映画の仕掛け(悪くいえば「トラップ」)なのですが、「怪物」というタイトルがつけられているので、誰が怪物なのだろうと探しながら観てしまいます。
この物語は、安藤サクラさん演じる麦野早織(子どもの母)、小学校教師の保利道敏、子どもふたりの視点でそれぞれ進行します。同じ時間・場面を、異なる視点で追うことによって、事実は全く異なるという構成です。
例えば、早織の視点では、行方不明になった子どもを必死になって探したり、傷心したように見える息子を慰めるのは親心のように映ります。しかし息子である湊の視点では、事情があって学校では仲良くできない友人と出会える数少ないチャンスを母親に邪魔されたと映るわけです。前者の視点では、湊は何を考えているか分からない「怪物」のように見えるし、後者の視点では、事情も知らずに過干渉してくる母親が「怪物」のように見える。早織→保利→子どもと順繰りに流れる構成なので、観ている者たちはまず早織に感情移入し、保利や湊を「怪物」だと思ってしまう。それは、ある意味で映画製作者側の思惑通りだといえるでしょう。
ある意味でメタファーとして「犯人探し」という行為を示唆しているようにも感じました。
日常生活において、何が「問題」のようなことがあると、何が原因なのか探ることが多い。例えば政治においては、自民党の支持者は「いつも批判ばかりの立憲民主党」を敵だと思うし、立憲民主党の支持者は「改悪の施策ばかり押し通そうとする自民党や、立憲民主党の『痛い』ところばかり突いてくる日本維新の会」を敵だと思います。(傾向があります)
でも、世の中、そんな単純ではないはずで。
もちろん批判(not 否定&非難)すべき点は、批判しなければならないでしょう。しかし、安易に対立構造を作ってしまうと、長期的な視点でみたときに遺恨を残してしまうし、何より本質を見誤ってしまいます。
片方の視点から「怪物」や「犯人」を探そうとする危うさ。どんなフェアに物事を判断しようとしても、スポーツのようにルールが明確に規定されているわけではない。だから、人間は本当に判断できるのかという問題も孕みます。
この映画で言いたいことは、
・人間は、誰にも「怪物」になりうる
・(あるいは)「怪物」なんて、どこにもいない
ということ。上に挙げたふたつは、同じことを意味していると思います。
安易に、安直に判断するのでなく、ひとつひとつ解す作業が必要だと僕は思います。では、どうすれば解していくことができるのでしょうか?
世の中には、もっと対話が必要だ
「怪物」の批評などでも多く語られていることですが、対話の必要性を提起している作品だと思います。
結局、それぞれの登場人物は、終盤まで心を割って対話しようとしません。さすがに、秘密を抱えた子どもに「対話しろ」と言うのは酷な話です。だからこそ大人が、もっと対話のための態度をとるべきだったのではないでしょうか。
映画では、緻密に「印象がどのように形作られるか」といったことが描かれていきます。
早織は、保利に対する不信感を少しずつ、しかし確実に積み重ねていきます。それは状況として、対話しようとしたときの態度の悪さもあったでしょう。しかし、「息子から〜〜と言われた」「友人から『保利のことをキャバクラで見た』と言われた」など、二次情報から早急に判断したことも少なくありませんでした。
一方で保利も、シングルマザーである早織に対して偏見を持っていました。それは、自分自身もシングルマザーの母親に育てられたという経験から起因したものです。ただそれはあくまで自分自身の経験であり、どんな手段を講じても、相手と対話することを諦めなければ偏った印象を持たなかったはず。ほぼ終盤まで、保利は「分かってくれない」環境に対する愚痴を吐露していました。自分にも何か落ち度があったのではないか?という謙虚さがあれば、彼らの関係性は早いタイミングで修復できたかもしれません。
「対話をしない」人物のひとりとして、高畑充希さん演じる保利の恋人も象徴的でした。保利が窮地に立たされ、週刊誌に追われるような立場になると、早々と彼のもとを去ってしまう。保利の言い分も全く聞かず、そそくさにパジャマだけを詰め込んで帰っていく。そこには対話のかけらもなく、ただただ社会的な体裁を気にしているだけの女性でした。
……ただ、このように書いている僕ですが、実はこれも彼女への一面的な偏見に過ぎなくて。映画では描かれていませんが、実は彼女も抱えている何かがあったのかもしれません。それは角田晃広さん演じる小学校教頭などにも同じことがいえるでしょう。
僕らは、映画という2時間で見える世界しか眺めていない。
その周辺や周縁を想像することができるか。そんなことが、映画を通じて問われているような気もします。
脚本を「手放した」是枝裕和
映画「怪物」では、第76回カンヌ国際映画祭で坂元裕二さんが脚本賞を受賞しました。実際に映画を観た方も、坂元さんの手腕を評価している声が多いように思います。
ただ、僕はこの作品は、監督を務めた是枝裕和さんにとって、ひとつの「成果」だったように感じます。実はこれまで、是枝さんは自身の映画作品において、ほとんど自ら脚本を手掛けてきました(デビュー作「幻の光」のみ、脚本を手掛けていない)。分業が当たり前の映画業界において、是枝さんのようなキャリアでは珍しいことのように思います。
是枝さんは、インタビューで次のように述べています。
なので、おそらく今後も是枝さんは、基本的には脚本も手掛ける映画作家として活動されていくのでしょう。しかし、この脚本を「手放す」という行為が、是枝さんの映画監督としての手腕を深めたのは間違いないように思えます。
実は、直近の2作品「真実」「ベイビー・ブローカー」でも、部分的にですが脚本を手放しています。両作ともに是枝さんの名前が脚本にもクレジットされていますが、それぞれフランス語、韓国語によって描かれた作品であり、当然ながら翻訳は別のスタッフに任せています。
これらの作品の評価はさておき、一言一句を大切にする映画監督として、脚本を「手放す」という作業は非常に勇気が要ったことでしょう。それが「怪物」では100%「手放す」ことを選んだわけですが、過去2作からの助走があったからこそ、手放すことができたのでしょう。
川が流れる町から、湖のある町へ
ロケ地として選ばれたのは、長野県の諏訪地方。
岡谷市、下諏訪町、諏訪市にまたがる大きな湖のある地域で撮影されたそうだが、もともとロケハンで想定されていたのは青梅や立川のあたりだったそう。6月2日放送のTBSラジオ「武田砂鉄のプレ金ナイト」を聞くと、ロケ地を変更せざるを得なかったのは、東京では撮影の許可が出なかったという消極的な理由だったそうだ。
流れる(フロー)の川と、佇む(ストック)の湖。
全く違う舞台だが、是枝さんから坂元さんに場所の変更を打診して、変更に至ったという。
となると、もともと是枝監督が想定していた、川が流れる町で撮る映画とはどんなイメージだったのだろうか。
映画「怪物」のエンディングは、いわゆるオープンエンディング。観る者によって解釈の分かれる形で終わっているが、川が舞台だったら、何かが流れ去った物事の物語になっていたかもしれない。
「生まれ変わる」が、ひとつのテーマだった本作。
生まれ変わるのは、流れゆくものなのか、佇むものなのか。ひとつ作品に難をいうのであれば、その問いの答えは謎のままだ。
逆にいうと、これから是枝さんが描くもののヒントになるかもしれない。「手放した」脚本は、どのように形が取り戻されていくのだろうか。
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アイキャッチ画像に写っている本は、映画「怪物」とは全く関係がありません。図書館の児童書コーナーでたまたま発見し、読んでみたら、とても良い本でした。機会があれば、副読本のような形で読んでみてください。
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