【現代お笑い論】#003 業界用語でお笑いを語る観客たち──お笑い批評と仕事術 鈴木亘
※こちらのnoteは鈴木亘さんの不定期連載「現代お笑い論」の第三回です。他の記事はこちらから。
業界用語でお笑いを語る観客たち──お笑い批評と仕事術
連載の第1回で、人々がどんどんお笑いについて語るようになっている、と書いた。次に考えたいのは、人々はどのようにお笑いについて語っているのか、ということだ。
言葉や比喩、観点、枠組み、評価軸の語り等々、さまざまな点から考えることが可能だが、今回取り上げたいのは、最近のお笑い語りの言葉、もっと言うと「用語」についてである。
近年、舞台や番組での芸人の振る舞いについて、ただ「面白い」「笑える」等の感想ばかりでなく、お笑いやテレビの業界用語を使って語られることが増えている。そしてそこには、芸人たちだけでなく、観客や視聴者も加わっているのだ。いったいどういうことだろうか。
「業界用語」で語られるお笑い:「平場」と「裏回し」
例を挙げよう。最近よく耳にするようになった言葉に「平場」がある。ライブや番組でのネタ以外の部分、企画やトークを行う場面のことを言う。フリートークやアドリブでのやり取りが得意であれば「平場に強い」と評されたり、逆にネタが面白くてもトークが苦手であれば、「平場に弱い」と言われたりする。
賞レースのたびに出演者の「平場」がネタに劣らず話題になるし(「ランジャタイ 平場」などで検索してほしい)、記憶に新しいところでは、R-1グランプリ2023のチャンピオン田津原理音が番組にかけられた八百長疑惑に対し、自身の「平場の弱さ」を自虐しながら反論を加えていた。
「裏回し」もしばしば聞くようになった。トーク番組などで、雛壇(これもテレビ用語だ)にいながら司会者と他の出演者のあいだでうまくパスを回したり、雛壇同士のやりとりをファシリテートしたりする役割のことである。司会ひとりの回しでは単調になりがちなところ、裏回しがいることで進行がスムーズになり、グルーヴも生まれやすくなる(らしい)。
この「裏回し」という言葉が市民権を得ていることを伝えるものとして、昨年の「ツギクル芸人グランプリ」決勝で若手コンビのネギゴリラが披露した「歴史の授業」というネタがある。
このネタにおいて、教師(ツッコミの細野)の問いかけや説明にテンポよく反応し、ツッコミを加え、教室を盛り上げる学生(ボケの酒井)を目にし、教師は「授業を裏回ししている学生がいる」と口にするのだ。メインパーソナリティーを教師に、その他の出演者を生徒に重ね(授業を模した設定の番組は実際にいくつもある)、バラエティにおける裏回しの振る舞いあるあるを授業中の学生が完コピしている、という設定に、このコントの笑いのポイントがある。
このコントが観客に受け入れられ、笑えるネタとしてテレビ放送されていたという事実は、「裏回し」の語がどれほど一般的にも受け入れられているかを示すものだろう。
これらふたつのお笑い流行語に共通するのは、どちらも単なる業界用語(「ザギンでシースー」のような)ではなく、かといってネタの質やタイプを語るための用語でもなく、舞台や番組というコミュニケーションの現場において芸人がどのようなポジショニングをし、どのようにそこを盛り上げるか、つまりは笑いの発生する場所に関わる言葉であることだ。一つ一つの笑いを点的に語るのではく、それが生じる構造、メカニズムに目を向け、いわば立体的に・俯瞰的にお笑いを語ることが、最近、根づき始めているように思われる。
もちろんこのような言葉の広まりとは無関係に、そもそも芸人たちは舞台や番組でいかに振る舞い、場を盛り上げ、印象を残すかについて、計り知れない分析と実践を重ねていたはずである。それでも重要なのは、芸人自身の暗黙知に属していたものが、言葉として概念化され、一般人の語るものとなったという事実である。
この状況から、以下では二つの方向に議論を進めてみたい。
お笑い論を、既存の映画論の枠組みで捉え直す
第一の方向は、こうした語りの傾向に、お笑い批評の深まりの端緒を見出せるかもしれない、というものだ。
精神分析の概念に、「想像的同一化」と「象徴的同一化」がある。精神分析の複雑な理論は措いておき、要点だけ示しておこう。哲学者スラヴォイ・ジジェクによる整理を借りる。
要するに、他人(舞台上の俳優でも政治家でもなんでもいい)に対し、自分もこうなりたい、という理想的イメージを見出し、それに自らを重ねることが想像的同一化である。日常的な言葉で言えば、例えば「感情移入」がそれに相当する。一方、そこから見ることで自らの目指す理想が正当化されるような視点、つまり〈この視点から見て自分が好ましく見えるようになりたい〉と感じるような視点に身を置くことが、象徴的同一化である。
これについては東浩紀の思い切った例解がわかりやすい。東は映画を例にこう言っている(実際、ジジェクもそうしているが、ラカンの議論と映画は相性がいい)。
象徴的同一化によって成熟した映画鑑賞が可能となる、というわけだ。成熟した映画鑑賞とは、役者や登場人物を単に見るだけではなく、作品の背後にある構造や仕掛け、メカニズムを理解することである。つまり映画を批評的に観ることだ。象徴的同一化とは作品鑑賞という文脈において、批評的視点を持つことと(多少乱暴に)言い換えることができる。
これを踏まえれば、「平場」や「裏回し」といった言葉でお笑いを語ることのポジティブな可能性が見えてくる。それはお笑いファンが芸人の言動を素朴に・受動的に笑うだけではなく、プロデューサーやカメラの眼差しに同一化し、その言動が舞台や番組において担う意味・効果を俯瞰的に語っていることを意味する。このときお笑いファンはいわば「成熟」した批評的視点を持っているのであって、「平場」や「裏回し」の語はその成熟を示すメルクマールなのだ。そうであるならば、こうしたお笑い語りは喜ぶべき傾向と言えるかもしれない。
お笑いは、世渡り上手になるためのものなのか
第二の議論に移ろう。ここでもまた同一化の話から始めたい。
想像的同一化/象徴的同一化の概念は、映画鑑賞という文脈を超えて、より一般的に自我の確立、主体の成長に関わるものである。映画はひとつの例にすぎない。事実、東も先の引用の直後にこう続けているのだ。
重要なのは、両親や教師との象徴的同一化とは単に個人としての両親・教師との同一化ではないことだ。それは個人を超えた秩序や価値観との同一化である。つまり、〈人としてこうあるべき〉〈社会ではこう振る舞うべき〉といった、両親・教師を通じて伝えられる規範を受け入れ、従うことが、ここで「大人になること」と言われている象徴的同一化の意味である(付け加えれば、この規範は、〈長男はこうするべき〉〈女ならこうであるべき〉といった、ときに受け入れがたいメッセージの形を取りうる)。
さて、こうした同一化の概念が、以下で議論したいトピックにも関わってくる。つまりこのようなことだ──最近のお笑い語りはビジネスパーソン的なパッケージングがされていないか?つまり、仕事に適応し、社会でうまくやり、マトモな人間になるための指針として、お笑いを見る傾向が強まっていないか?
顕著な例として、テレビ東京の番組「あちこちオードリー」を取り上げたい。オードリーをホストとして、ゲストと「打ち合わせなし」のトークを行うこのバラエティには、他のトーク番組と比べたときに顕著な特徴がある。
それは、バラエティ番組での振る舞い方や芸能界のサバイブ術など、要するに「社会でうまくやる方法」がきわめてしばしばトピックに挙がるのだ。
例えば3/22放送回のタイトルは「芸能界が生きやすくなる参考書を作ろう!」だった。ゲストが実体験から学んだ、芸能界で上手にやっていくための教訓を持ち寄って、それをもとにトークするものである。数ヶ月に一度は放送される、あちこちオードリーの看板企画だ。
毎回ひとりは芸人がキャスティングされる(今回はカンニング竹山だった)が、披露されるのはネタや芸でも、それに対する批評でもない。むしろ番組や芸能界の論理とはどういうものであり、そこで生き残るためにはどうすべきか、という、いわばテレビの規範を受け入れ、それに同一化するための戦略である。
また陣内智則とコットンをゲストに迎えた2/15放送回は、大物MCの「横」、パートナーとしての起用が目立つ陣内に、「横MC」としての仕事術を伺うものだった。「横MC」という造語は「裏回し」の派生語のようだが、もちろん先に触れた構造的観点でお笑いを語ることが視聴者にも共有されているからこそ、このような言葉を使うことができるのだろう。ただしここでもまた、フィーチャーされるのはお笑い批評ではなく、むしろ番組や芸能界でうまくやるための仕事術でありライフハックである。おそらく視聴者は、お笑いを見る体でいつのまにか、自分たちが社会でうまくやっていくための指針を教えてくれる仕事論として、この番組を楽しんでいるのだ。
お笑いの懐の深さ
もちろん例外はいくらでもある。例えばあちこちオードリーと同じく佐久間宣行がプロデューサーを務める「ゴッドタン」の連続企画「お笑いを存分に語れるBAR」がそうだ。東京03の飯塚などお笑いに一家言ある芸人が、タイトル通りお笑いを存分に語るだけのこの企画は、2019年以来すでに放送8回を数えている。これはお笑い批評が仕事術的文脈を介さなくても、それのみで魅力あるコンテンツたりうることを示す好例だろう。
また、テレビ朝日の人気番組「アメトーーク!」の3/30放送回は、「先輩に可愛がってもらえない芸人」という企画だった。先輩に可愛がってもらえない、つまりは業界の人間関係をうまくやれない芸人を集めたトークだが、あちこちオードリーとは対照的に、うまくやれないことを克服するライフハックを主軸においた番組では決してなかった。むしろ可愛がってもらえないこと、うまくやれないことそのものをネタにし、笑いにする、適応も成熟も目的としない番組構成だった。
だがここで言いたいのは、お笑い批評番組もあれば仕事術番組もある、いろいろな違った番組がある、ということではない。そうではなくてむしろ、それら異なる性質の番組がバラエティというひとつの枠組みの中で、使用言語(「裏回し」など)や構造(象徴的同一化)の類似性を介して、シームレスに結びついていることを指摘したい。わたしたち視聴者は、批評という芸術論的言説と、適応と成熟のための人生論的言説とを、同じ態度で享受しているのだ(注1)。
***
社会への適応のモデルとしてお笑い番組を見ること。それが良いことなのか否かまでは踏み込まない。というより、何も悪くはないだろう。ただし、お笑いについて語っているつもりがいつのまにか仕事について語ってしまっていること、社会でうまくやることがいつのまにか優れたお笑いの基準に入り込んでしまうこと、そうした傾向について、わたしたちは少なくとも自覚的であるべきだ。
その傾向において、笑いには二つの政治的可能性が与えられている。ひとつは、例えばベルクソンのように、笑いを秩序矯正的なものと考える可能性。もうひとつは、例えばバフチンのように、秩序破壊的なものと考える可能性だ。お笑いを適応のモデルとして捉えることは、後者の視点を疎かにしかねないのである。
この笑いと政治の関係については、稿を改めて論じたい。
(注1):ちなみに佐久間宣行は昨年、『佐久間宣行のずるい仕事術』というビジネス書を出版している(ダイヤモンド社)。このことはお笑いと仕事術の接近を考える上で示唆的だろう。ただし佐久間はこの本で、仕事をお笑いに例えて語ることも、お笑い芸人の振る舞いに仕事術の理想を見ることもしていない。ここに氏の優れたプロフェッショナリズムを見出したい。
著者プロフィール
1991年生まれ。現在、東京大学大学総合教育研究センター特任助教。専門は美学。主な論文に、「ランシエールの政治的テクスト読解の諸相──フロベール論に基づいて」(『表象』第15号、2021年)、「ランシエール美学におけるマラルメの地位変化──『マラルメ』から『アイステーシス』まで 」(『美学』第256号、2020年)。他に、「おしゃべりな小三治──柳家の美学について 」(『ユリイカ』2022年1月号、特集:柳家小三治)など。訳書に、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『受肉した絵画』(水声社、2021年、共訳)など。
Twitter:@s_waterloo
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?