「みんな生きている〜二つ目の誕生日〜」が、好きだ!【考察】
考えさせる映画見たなぁ。
「みんな生きている~二つ目の誕生日~」の存在自体は、半年前くらいから知っていた。
てか、公開前から存在は知っていた。研究室の関係で、情報を仕入れていたのだ。
その時の私には、抵抗感があった。
「医療系か~~~」みたいな感じ。病院とか、医療とか、ホスピタルとか、死ぬとか生きるとか、正直敬遠しているカテゴリーのものだった。美化しまくって、「感動させてやるぜ!」っていう意図が透けて見えるような気がしていて。
てか、誰かが苦しんだり、亡くなったりする物語を映像で見るのに抵抗感がある、というのもあった。
ギリギリみれるのは「ドクターX」。あとの医療系作品は避けて通ってきた。
が、しかし。
公開されてから、周りの人が見はじめ、先輩方も見はじめ、「見たよ!」という報告を聞くようになって、ちょっとずつ気になりだしていました。
なんか寡黙な先輩もその映画見るために東京まで出向いていたし。
で、「行こうかなぁ」と思っていたけれど、チャンスを逃し続けて4月。
ようやっと、みるタイミングと巡り合ったのだ。
先輩からのメッセージでそれは動いた。
「席予約しておいたよ~」とノリノリの先輩。映画を見るのは二回だそう。
後輩二人と、先輩二人に挟まれる私。ちょうどド真ん中の良い席に座りながら、今か今かと上映されるのを楽しみにしていました。
映画が終わり、舞台挨拶も終わり、なかなか減っていないドリンクに気がついて、一気に飲み干します。
映画に魅了されすぎていて、飲むのを忘れていた。
面白かったなぁ! しかも、考えるポイントいっぱいあるじゃん……!
最初の感想は、これでした。
公開中の映画なので、ネタバレをいい感じに回避しながら考えた部分をまとめていきます。
元カノ界隈に激震
……って、書きたかっただけなんですけど。
いや、私は元カノという立ち位置に非常に執着があるのかもしれない。
大介には発病前から付き合っている彼女がいた。しかし、長い闘病生活の間に彼女は離れてしまったのだ。これを見て、何を思うのか。
私は「そりゃ、別れるよなぁ」と思いながら見ていたのですが、のちに先輩後輩と話していたら、この「そりゃ」は誰かの元カノになったことがある(というか、振った経験がある、離れる決意をしたことがある)からこそわかる感覚なのかなぁと気付かされました。
「なんで最後まで支えないんだ!」「大介かわいそう!」と受け取る人もいるかもしれません。
が、しかし。
亜由美ちゃんは大介の闘病中最も「どう接しよう」と悩んでいて、その姿から大介を支えようとしている姿は読み取れます。
めちゃくちゃ悩んで、押すべきか引くべきかも考えて顔を出すのかすらも迷っていたりする。
大介は友人達の前では強がったりしているので、弱い姿を見せたくないんだろうなぁ。彼女の前では尚更だろう。
空手の道が閉ざされかけているなら、尚更へこたれている姿は見せたくないのだろう。
亜由美ちゃんにちょっと厳しく当たってしまうのもわかる。
守りたいと思っていた人物から守られそうな状況は、案外辛いものだし、プライドもちょっと傷ついたりもするものだ。これは、多分男女問わず感じるものだろう。
亜由美ちゃんは、それでも支えたいって思うのだ。
だから大介を叱咤激励するし、接し方を心の底から考えながら行動している。
で、寛解してはっちゃける大介をみてバチギレすると。
で、別れを告げると。
めっちゃわかる。
心配返せって思うもん。
人として当然の反応をしたのだ。
寛解は完治というわけではない。再発リスクは全然ある。のにも関わらず遊び呆けているのならば、そりゃ、ブチギレますよと。
それに、勢いで別れを告げたわけではないのだ。考えて考えて、考え抜いて、「この人を支えられない自分」に嫌気がさしたんじゃないかなぁ。優しい人ですね。
強がっていたり、格好つけているのも勘づいていたのかもしれません。
てか、わかりますよ、私でもわかったもん。
弱っているのはわかっているし、不安があるのもわかっているのに、それを一緒に分かち合ってくれないと思った時の虚しさは、計り知れない。
「それでもそばにいるよ」と言えば、物語的にはとても美しいものかもしれない。美談になるかもしれない。
でも、現実ってそんなに甘くないし、そんなに都合も良くない。
自分が人間であると同時に、相手も人間であるのだ。不安も恐怖も感じる人間なのだ。
相手のことを思いやる気持ちも十分にあるし、でも自分のことも同時に思いやっているのです。
家族と他者の違いはここにある。
全く違う環境、価値観で育った二人が共に支え合って暮らすことは、どっちかが我慢しっぱなしではダメなのだ。
どっちかが自分を押し殺して相手のことを想い続けるだけではダメなのだ。それはお付き合いではない。
支えるって、しんどいねん。
支えっぱなしだったら、潰れるねん。
弱っている人を支えるというのは非常にプレッシャーもかかるし、責任ものしかかってくるし、一人でなんとかしなくちゃと思ってしまうし、本当に本当にしんどいんです。
支え合うから、なんとかなってるというだけで。
この支え合いの難しさを、大介と亜由美ちゃんの関係で伝えられています。
何も医療現場や、介護現場に限った話ではありません。
日常生活でも起こります。
お互い、強がって、本音も言えないままズルズルいったら、最悪の結末しかない。でも我慢したくてしてるわけでもないから、複雑だなぁ。
別れが罪だとか、悲しいものとか、そういうことが言いたいのではなくて。
誰が悪いとか犯人探しや原因追及がしたいのでもなくて。
素直になるということがどれだけ難しいのか。
どっちか一方がちょっとでも疑ったら、この関係は成立しないのだ。
向き合うのがどれだけ難しいのか。
どっちか一方の余裕がちょっとでもなかったら、この関係は成立しないのだ。
好きって言うのも、付き合いたいって言うのも、支え合いたいって言うのも口で言うのは簡単です。
好きも、付き合うも、支え合うのも、持続させるのがとても難しいのだ。
朝起きて歯磨きするのとはワケが違うのだ。お付き合いって本当に難しい。
難しいからたくさんの別れがあるのだ。
余裕もないし、素直になるのも恥ずかしいから、あと向き合うのも怖いから、遠ざけるし、傷つけるし。
お互い様なのだ。私の心がもうちょっと大人で、余裕があったら違う結末があったのかもしれないと思う時は何度もある。
でも、無理なものは無理なのだ。もっと突き放した言い方をすれば無理だったものは無理だったのだ。ゴメンネ。
このスキポイントとしては、別れてからは一切亜由美ちゃんが登場しないというところ(写真では登場しているけれど)。
実話をもとにしているとはいえ、元カノの存在を見え隠れさせない潔さがあってとても好印象でした。
別れってそういうもんだからね。一度切れたら戻らないからね。現実。
私がまだどこかで生活してる誰かの元カノだから、こんなにも激震が走っているのかもしれませんね。
カメラワーク
映像で物語を作るということは、ストーリー(脚本)も、もちろん重要ですが、何よりも重要なのはカメラワーク(演出)です。
映像作品は、見ることで理解するので、人物の動きをどのように撮影するかで受け取る印象も変化していきます。
構成としては、前半で大介の闘病生活を描き、後半ではドナーの美智子さんの生活を描いています。
この演出、本当に好き!
前半と後半でカメラの動き方が全然違うんですよね。
前半では定点カメラが多く、遠くの方から登場人物を見ている構図が多かった印象があります。
それに比べ、後半ではカメラの動きが大きくなり、人物の表情がわかるところまでアップで撮ったり、俯瞰で撮ったりしていました。まるで普通の映画のように。
これは、実話の部分と想像の部分を違った形で表現しているのでは……?と考えたわけです。
前半の大介の闘病生活は、実際に演じている樋口大悟さんの実話に基づいています。多少の脚色があったとしても、大筋は変わりません。
しかし、後半はどうでしょうか。骨髄移植の制度を見ると、提供する側もされる側もどんな人物であるのかは知らされることがありません。
そのため、美智子さんの物語は完全なる創作(フィクション)であるわけです。
なので我々がよく見る映画やドラマのように、アップや多角的な撮り方をしているのかなと。
あとは色彩ですね。前半は全体的にモノトーン気味で、色味が飛んでいるのに比べ、後半は鮮やかな色、照明が増えています。
一気に画面が華やかになったのを覚えています。
これもリアルとフィクションを対比させているのではないかなぁと思いながら見ていました。
リアルとフィクション。この対比がカメラワークと色彩で演出されているのが面白いなぁと思って見ていました。
これで観客側にも、はっきりとした境界線が引かれれるわけです。
決して交わらない二人、そして世界。これが非言語で伝わってくるのが趣がある。映像でしか伝わらないから、この素敵さは劇場で確認してほしい。
「みんな生きている」というタイトル
タイトルにある「みんな生きている」って、これ当たり前のことじゃないですか。死んでたら言えないし。
しかし、これをメインタイトルに持ってきたということは、かなり深い意味があるんじゃないかと思ったんですよね。
私的解釈としては、みんな一人では生きられないよねってことなんじゃないかなぁと。
当たり前っちゃ当たり前だけれど、ふっと息を抜くと忘れてしまってしまうことでもある。
ネットでなんでも注文できちゃうし、顔の見えない相手とコミュニケーションも取れてしまう。食べ物はスーパーで確保できるし、お仕事だって、在宅だったら一人でできる。
まるでお金さえあれば、一人で生きられてしまうような世の中。コロナ禍で人との接触が格段に減り、人との接触はタブー化されてしまいました。
SNSには、平面の人間がウヨウヨいて、どうしても生身の人間と接している感じがなくなって、自分がこの世界で一人だけになってしまったかのような感覚に陥りがちである。私がそうである。
でも、みんな生きてるんです。
大介が生きているのは自身の強い気持ちもあるし、美智子さんのおかげでもある。そして支えてくれた家族のおかげでもある。
美智子さんが骨髄移植を決意したのは取り巻く家族のおかげ。
家族の支えが成り立ったのは各人の取り巻く、他の人の些細な言動や様子から気持ちが揺れ動いたおかげであって。
一人では絶対に生きられない。取り巻く環境には絶対に一人以上の人間がいる。画面越しでも、必ず生きている人間がいるのだ。
その人間の影響を多かれ少なかれ受けて、自分の気持ちが少しずつ変わっていくのだ。
生きているからこそ、物語が進んでいくのだ。
たくさんの人とのつながり合い、関わり合いで、自分が生きていることを自覚するのではないだろうか。
みんな生きていて、繋がっていて、関わり合っているからこそ、大きな流れができるのだ。
魚の群れみたいな、羊の大群みたいな、そんな大きな流れが人にもあって。
「こうだったから」「ああだったから」とかの理屈じゃ追いつかない繋がりがそこにあるんです。
それを喚起させるのが、タイトルの「みんな生きている」なのではないでしょうか。
ちなみにハッシュタグでは#みん生き と略すそう。語感が可愛いのでふとした時に使いたくなりますね。みん生き、みん生き。
映画の変わった使い方
舞台挨拶の時、樋口大悟さんが「この映画はいつか、私のドナーの目にも届くかもしれない。そのためにも皆さんの力が必要です。口コミや宣伝の協力をお願いします」と言われていたのが印象に残っている。
この映画をもう一つのお手紙のように使っているのが、素敵だなぁって思ったのだ。
骨髄提供をしてくれたドナーと、患者は骨髄バンクを通じて一年以内に二往復だけの手紙によって感謝の意を表すことはできる。
けれど、制度の仕組みのよって、連絡先はおろかお互いの個人情報すらも教えてもらうことはできないのだ。性別くらいは知らされるようだけれど。
どこかにいて、どこかで生きている大悟さんのドナーに届いたら、彼の「ありがとう」がストレートに伝わるだろう。
ドナー側も、誰に提供したかはわからない。
ので、大悟さんはたくさんの「ありがとう」を背負って、感謝を届けるために、映画を制作したのではないだろうか。
手紙以上に、手紙の役割をこの映画は果たすのだ。
それを届けるためにたくさんの人の協力が必要なのだ。
いろんなところでこの映画を見た人が、「これ、見てみて!」と友人知人に繋げていく。
そして、いつかそれはどこかにいるドナーの元へ。
かつて誰かに提供することを決意した、たくさんのドナーの元へ。
素敵やん?
それで心動かされた一人でもある私は、こうやって記事を書いているわけですが。
もちろん、白血病というものの詳細や、骨髄バンクの存在は物語を通じて観客に届けられる。ドナーのためだけの映画ってわけでもないのだ。いろんな想いが詰まっていてキラキラしてますよね。
私も、この映画を見てから「ドナー登録してみよっと」と思ったのだから、観客の心を動かすには十分の効果を発動していることは明らかだ。
観客参加型の映画っていうことにもなるのでしょうか。
全員でこの作品を作り上げているような感覚もあったりする。
そこに参加したい~!って思えるなんて、もう大成功の映画じゃないですか。
心動かされまくりです。
この映画はただ「感動した!」「泣ける!」みたいなお涙頂戴ストーリーではない。
もちろん感動するし、泣いたけれど、それはドラマチックなストーリーやド派手な演出からくるものではない。
リアルと人の優しい心を動かされるのだ。
病気と向き合うことの恐ろしさ。
人を頼りにすることの不安感。
ドナーになると決意すること。
提供する側、される側のリスク。
綺麗事や絵空事では済まされない、誰の身にも降りかかる苦悩と不安を描いているのだ。
現実で奇跡は起こらない。でも、ちょっとだけラッキーなことは起こる。
家族や友人の言葉を素直に受け取れたとき、
「ちょっとだけ信じてみようかな」と気持ちを開いたとき、
「誰かが助かるなら」と一歩前に踏み出したとき、
ドミノ倒しの一個目みたいに、小さなラッキーが積み重なって、大きな奇跡を作り上げるのではないだろうか。
命の素晴らしさとか、生きている実感とかももちろん伝わってくる。
今この瞬間、私たちが「生きている」というのは当たり前のことじゃないのだ。
これも、小さなラッキーの積み重ねなのだ。
誰の身にも起こりうる。
ある日突然やってくるのだ。
別れも発病もサポートも。
自分が動かなくちゃならねぇと決意を固める瞬間は、突然やってくる。
突然のことに対応できるように、1秒1秒を真剣に生きるのだ。
みんな、生きるのだ。
みん生きなのだ。
だから私も考える。私にできることは何なのか。
宣伝をすることですね~!!
ただ感動するだけじゃない。
「生きている」ということ、「これからみんなで生きる」ということを再び考えさせられる素敵な映画でした。
最高の出会いをありがとうございました!
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