「ディープな維新史」シリーズⅧ 維新小史❸ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭
革命主義の『福原越後公を憶ふ』
上宇部中尾(山口県宇部市)の「維新館址」の石碑が、昭和3(1928)年11月に昭和天皇の御大典記念で建立されていた。
実は、これに先駆けて3月から4月にかけて福原越後公遺績顕彰會主催の萩中学校の香川政一による〈福原越後公を憶ふ〉と題する講演会が「市内三講堂」で開かれていた。
このときの講演録が『福原越後公を憶ふ』と題する小冊子として山口県文書館蔵に保管されている。藤本閑作(福原家臣で東見初炭鉱の経営者)を編集人とし、福原越後公遺績顕彰會から昭和3年5月に発行された小冊子だ。
このなかで香川政一が「当職六年」の間に福原越後が行った革新的な藩政治績を3つあげていた。
一、藩治所を山口に移転す
二、明倫館の教育改革をなす
1 勤王精神鼓吹のために日本歴史を課す
2 独逸(ドイツ)より教師を聘(へい)して洋学を学ばしむ
三、軍隊の改革をなす
1 陸軍を分かちて歩騎砲の三兵科とす
2 三田尻に海軍局を起し海軍学校を創設し大ひに海軍に意を用ひる
説明が前後するが、「当職」とは藩主の意向を受けて藩の事業を担う最高責任者である。『日本史用語大事典』風にいえば、萩藩重鎮の加藩役の会議(御寄合)で決定されたことを「当職」に委ね、行政を統括して事業を進める役である。
香川は「当職六年」としているが、『宇部市史 通史篇』(p284)には万延元(1860)年6月27日に浦元襄に代わって当職になったと見えるので、実際は自刃する元治元(1864)年までの約4年間であろう。
この僅か4年間の福原越後の「当職」時代に、萩藩全体に及ぶ大改革が、進んだ、というわけである。
そこでまず、「一」については、萩城とは別に、幕府には秘密裏に山口城を造るというプランを示していた、というのだ。これは文久3(1963)年4月から藩主・毛利敬親を山口に迎え、後に県庁所在地になる場所に西洋式兵制(西洋銃陣)に対応した革新的な山口城が建設され、この地が討幕の拠点となるわけである。
つづいて「二」は、萩の明倫館とは別に山口城に付随する山口明倫館を設置し、ここで国学と洋学の興隆を図るプランを示している。萩の明倫館は幕藩体制を維持する儒教と仏教中心で、これに対して山口明倫館は旧来の学問から、国学と洋学に主軸を移した革新的学問体系を重視した。なかでも国学研究の中心が現在の山口県立美術館の場所にあった文学寮の編輯局で、後に靖国神社の初代宮司となる青山清(青山上総介)たちが招魂祭や楠公祭など国家神道の雛形を用意する場が、ここであった。
まさに、「1 勤王精神鼓吹のために日本歴史を課す」というのは、そんな編輯局の役割を示しており、一方の洋学は兵学寮で行われ、その中心人物は大村益次郎であった。それが「2 独逸より教師を聘して洋学を学ばしむ」は、兵学寮の役目を示していた。いずれにせよ、この2つが、旧来の儒仏主義に代わる新しい学問を長州藩で促成栽培されるのだ。
ちなみに、禁門の変の直前である元治元(1864)年4月に、宇部に創設された維新館も、新設の山口明倫館の国学と洋学中心の新たな学問体系に連動して宇部に造られた学校であったわけである。
さて、「三」の「2 三田尻に海軍局を起し」というのは、文久3(1863)年11月3日に「三田尻御船倉を海軍局と改称(『防府市史 別冊年表』)の記述に呼応している。毛利家文書『三田尻惣絵図』(山口県文書館蔵)に描かれる「御船倉」が、原越後が「当職」時代に創られた海軍局の場所であった。
現在の防府市三田尻3丁目の国指定史跡「三田尻御舟倉跡」である。
この後で香川政一は宇部の「維新館」について、「維新の文字が天下に率先して宇部に於て用ひられたと云ふ事は実に意義深い事で、又宇部の誇りであります」と語り、「而してこれが源となつて明治維新の語が出来、国家の事に用ひられる様になつた」と結論づけていた。
福原家の学校「菁莪堂」の名前だけ改めたのではなく、教育内容も山口明倫館と連動して幕藩体制を支えてきた儒教と仏教からの脱却をはかったのだ。
それが体制変革と革新としての「維新」の本質であった。
福原越後は、今の言葉でいえば革命主義の「当職」であったといえよう。 なお、福原越後の革新思想を高く評価していた香川政一は『英雲公と防府』(昭和11年・防長倶楽部)や『中関と加藤家』(昭和14年・非売品)などをまとめた優れた郷土史家であった。