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「ディープな維新史」シリーズⅣ 討幕の招魂社史❿ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭
文明開化のシンボル「靖国神社」
上京した時はよく靖国神社を参拝する。
そして、いつ訪れても境内には大勢の人がいる。
とはいえマスコミが常に問題にするのが靖国神社と大東亜戦争における「A級戦犯」の合祀問題だ。政治家の参拝の賛否だけが恒例行事になって久しい。
大東亜戦争は昭和16(1941)年12月8日に始まり、昭和20(1945)年8月15日まで続いた戦争で、日本はアメリカ、イギリス、オランダ、中国などの連合国と戦い、敗れた。
戦勝国が極東国際軍事裁判(東京裁判)で、日本側の重要戦争犯罪人25名を有罪としたのがいわゆる「A級戦犯」で、東条英機ら7名が絞首刑となった。
絞首刑のほか、その後に獄死した14柱の「A級戦犯」が靖国神社に合祀されたのは、昭和53(1978)年である。
つづいて昭和60(1985)年8月に首相としては初めて中曽根康弘氏が公式参拝。
これ以後、国内外をはじめ、中国や韓国から政治家の参拝に批判が起き、現在に至っている。
だが、曾祖母の祖父が初代宮司を務めた立場から言えば、大東亜戦争などたかだか70年余り前の出来事に過ぎないのである。
そもそも靖国神社は長州藩の討幕運動に由来する招魂社をモデルにして、九段に明治2(1869)年6月に東京招魂社として創祀されたのがスタートだった。
その意味ではトータルでは150年以上の歴史があり、大東亜戦争の話は後半部分でしかない。
したがってヤスクニを論じるときは、ぜひとも創建期の話から始めてほしいというのが、初代宮司の子孫の一人として長年感じていることなのだ。
靖国神社は、前述のように幕末長州藩での討幕運動から現れた招魂社が源流であった。
これをけん引したリーダーの一人が、萩の椿八幡宮第九代宮司・青山上総介(あおやまかずさすけ)であり、彼が維新後の廃藩置県時に上京し、青山清と名を変えて東京招魂社に奉職したのである。
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青山は事実上の宮司である祭事係として東京招魂社に奉職。
明治12(1879)年6月に靖国神社の成立と共に初代宮司になった時代が、どんな様子かを、知ってほしいのである。
まず、注目して戴きたいのが、東京招魂社をデザインした大村益次郎が洋学者だったことだ。大村は旧士族の特権を廃止する目的で、廃刀令、士族の身分を廃したうえで、ナポレオン方式の徴兵令を計画したほど急進的欧化主義者だった。
このため長州藩の攘夷派に狙われ、東京招魂社の創祀からわずか3か月後の明治2年9月4日に遊撃され、11月5日に死去していた。今風の言い方をすれば、靖国神社の創建を推進した大村は、こともあろうに右翼に殺されたのである。
大村の遺体は、船で生まれ故郷の三田尻(現、防府市三田尻)に降ろされ、鋳銭司(現、山口市鋳銭司)まで運ばれた。そして山口明倫館時代に同僚だった青山上総介(青山清)が祭主となり、神道式の慰霊祭が行われたのだ。それはすなわち、大村を神として祀る招魂祭にほかならない。
戊辰戦争が幕を閉じ、新政府が成立したとて、幕末の動乱が続く中で、旧徳川勢力により暗殺されたという意味では、維新革命での戦死者である。
ともあれ、そんな欧化主義者の大村がデザインした東京招魂社もまた、当然ながら洋風の招魂社だったのである。その流れは、大村の暗殺でも止まらなかった。
たとえば、明治3(1870)年9月には兵部省の主催で、西洋競馬が境内で開催されていた。
旧来の縦に馬が走る縦競馬ではなく、イギリス式の円競馬である。
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また、明治4(1871)年10月にはフランスのスリエのサーカス興業が境内で行われた。
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11月には西洋情緒あふれる風見付きの高燈籠を境内入り口に設置されている。
これは現在、靖国神社の入口と道路を隔てた場所で見ることができるが、今なおモダンである。
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そして西南戦争後の明治11(1878)年7月には境内に西洋樹木を植え、洋式噴水のある西洋庭園が完成した。
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つづいて前述のように明治12(1879)年6月に靖国神社に改称される。
だが、文明開化路線は変わらず、明治13(1880)年11月にはイタリアのカペレッティの設計で、境内にロマネクス様式の遊就館が落成する。
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さらには明治20(1887)年12月に、前代未聞の青銅製の大鳥居の建立式が行われるといった流れである。
しかも攘夷派に殺された大村益次郎銅像が、日本初の西洋式銅像として明治26(1893)年2月に完成してもいた。
靖国神社は近代西洋主義のシンボルであり、文明開化の具現であったのだ。
それは国家神道の象徴であると同時に、近代的な四民平等の理念を示してもいた。
明治43年刊の『偉人乃跡』で三宅雄二郎(雪嶺)は、「靖国神社に合祀せらるゝは貴賎の上下の差別なく、大臣大将と雖(いえど)も國難に斃れざれば與(あず)かるを得ず、一輪卒と雖も死せば即ち與かる」と語っている。
徳川幕府後の閉塞した社会に身を置いていた人たちは、欧化の具現としての靖国神社に、身分秩序の崩壊と近代西洋に彩られた新たな時代の息吹を感じていたことは間違いないのである。