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「ディープな維新史」シリーズⅦ 癒しのテロリスト❶ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭
伊藤博文
原田伊織氏は語る。
「ハクをつけるためという許し難い暗殺には、実は伊藤俊輔(博文)も手を染めているのです。彼らはこれらの行為を〈天誅〉と称していました」(『知ってはいけない明治維新の真実』)
私は原田氏の発言を必ずしも否定はしない。
実際、初代・内閣総理大臣の伊藤博文は、幕末における松下村塾時代はテロや殺人などを請け負う鉄砲玉だったからだ。
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伊藤に限らず、松下村塾生の久坂玄瑞なども、暗殺実行者となっている。
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松陰の肖像画を描いて有名になった魚屋の倅の松浦松洞もそうだ。
松洞も、安政5(1858)年9月には、水野忠英の暗殺を松陰からそそのかされていた。その延長上に長井雅楽の暗殺をしくじり、文久2(1862)年4月には、自ら京都粟田山で自刃してもいた。
伊藤の攘夷テロの手始めは、文久2(1862)年12月12日の品川御殿山に建設中のイギリス公使館の焼打ちである。
吉田松陰の門下生19名の参列で、京都の蹴上、粟田山で吉田松陰を神として祀る招魂祭が、長州藩の国学者・青山清(青山上総介)の手で斎行されたのは、2ヶ月前の10月17日であった(「ディープな維新史」Ⅳ「討幕の招魂社史❾」)。
これ以後、門下生たちの間に松陰の霊が憑依したかのような攘夷熱が沸き起こり、イギリス公使館の焼き討ちに向かうわけだ。伊藤は京都での招魂祭にこそ参加していないが、イギリス公使館焼打ちでは見事なテロをやってのけた。
それからさらに1週間余りが過ぎた12月21日の夜、山尾庸三と連れだって塙次郎(国学者の塙保己一の息子)を斬り殺してもいた。
『幕末防長勤王史談 第四』によると、伊藤は麹町三番町の塙宅の門前に潜み、酒気を帯びて帰宅した塙を背中から斬り捨てたらしい。
そればかりではない。
翌朝、日本橋橋に生首を晒し、「廃帝の旧記を取調べ候段、大逆の至り」ゆえに「天誅」を下したと、わざわざ殺害理由を書いた捨札も立てていたのだ。
時を同じくして伊藤は高槻藩士の宇野東桜の暗殺にも関わっていた。
こちらについては、大正11(1922)年刊の『松陰とその門下』に、有備館で高杉晋作が斬り殺した宇野の遺体を伊藤が捨てに行ったと記されている。
こうしたことから佐伯彰一は幕末の伊藤を「テロ行為の実行者であり、殺人者」(『近代日本の自伝』)と述べていた。
実に伊藤と山尾庸三が長州ファイブのメンバーとしてイギリスに密航しなければなからなったもう一つの理由が、こうした犯罪行為にあったのである。すなわちテロリストとして、幕府にオタズネモノにされたからだ。彼らにとって、イギリス密航=海外逃亡だったのだ。
そんなテロリストとしての伊藤を献身的に庇護したのが、長州藩士の井上馨であった。
伊藤がイギリスに渡れたのも、後に総理大臣になれたのも、藩に顔が利く井上の助けによる。
そして2人は生涯を通じての大の親友となったのだ。その話を『井上馨 ―開明的ナショナリズム―』で書いたら、NHK大阪放送局が取り上げてくれ、平成27(2015)年1月7日放送の「歴史秘話ヒストリア」で「友がいれば、越えていける!」という番組に仕上げてくれた。
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ただ、本当に面白いのは、番組にはならなかった明治になってからの伊藤なのだ。
かつての殺しのプロは、新政府の要にのし上がるや、命を狙われる立場に逆転したからである。
正確には初代総理大臣に就任する直前の明治18(1885)年2月に、旧黒田藩士の杉山茂丸に命を狙われていた。身長170センチもあった22歳の杉山は、43歳の小柄な伊藤を素手で殺せると思って面会を求めたが、テロリスト出身の伊藤はかつての攘夷テロを自慢し、逆に杉山をも魅了させる始末であった。
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実にこの奇妙なテロリスト同士の出会いにより、その後の杉山が筑前玄洋社と長州閥政権の橋渡し役となったり、井上馨を通じて玄洋社の運転資金を用意したり、九州鉄道の敷設を行ったり、筑豊炭田の開拓や八幡製鐵所の誘致など、北九州の近代化が推進されていったのである。
その実際を知れば、幕末のテロリズムの道徳性を述べたところで、ほとんど意味のないことが見えてこよう。