【古文】仰ぎ見る 巨塔と月と 我が恩師
「古典」は退屈だったが「古文」の授業は面白かった。面白かったといっても、あのスパルタ高校なので、「次に挙げる全ての助動詞について、表記してある通りに暗記して下さい。1週間後に口頭試問または筆記試験を行います。古文解釈の上で非常に重要ですから完全に覚えて下さい。未然形接続/る・らる・す・さす・しむ・ず・む・むず・じ・まし・まほし・り(サ変のみ)。連用形接続/き・けり・つ・ぬ・たり(完了)・けむ・たし・・・」といったプリントが毎週のように配付され、まさに「けむ・たし(煙たし)」勉強ではあった。が、源氏物語の現代語訳ばかりに終始したマンネリレッスンの「古典」とは違って、「現代の常識から逸れた大昔を旅する方法」「自分達には見えない感覚の掴み方」みたいなものを指南する異彩な先生に出会えたのだった。高尚な香り漂うイケメンで、和歌が趣味というだけあって、生徒達からは渾名で「業平」と呼ばれていた。
偶然にも先生のお住まいが業平橋だと後から知った時には、もう驚嘆を超えて笑ってしまった。蛇足ながら、まさか卒業して17年後、あんな下町の貨物ヤードの一角に高さ634メートルの電波塔が建てられ、駅名までもが改称されるなんて、あの出来事にも驚嘆を超えて笑ってしまった。当時すでに私は京都へ転勤し、本物の業平が暮らしていた間之町通御池下ル東側の邸址の近所から、東武鉄道の大胆な営みをさも外国のニュースかの如く受け止めていたが、もともと業平橋駅とて“旧姓”は浅草駅で、その前は吾妻橋駅だった。平安の世から変化のない都のほうが寧ろ特殊なのである。
――春うらら、向日町競輪へ出かけたものの、開催日を1日間違えた事に途中で気付いた折、折角桂川を渡ったのに何処にも寄らずに折り返すのも勿体無いと、十輪寺まで足を運んでみる。四分咲きの「なりひら桜」を愛でつつ、私は「幼年期、観音様へお参りした折、『折角だから隅田川を渡ってみたい』と母に強請っていなければ、業平なんて漢字は読めるようにならなかったかもな」「少年期、京王閣へ連れられた折、『折角だから全国各地の競輪場を知りたい』と父に強請っていなければ、向日町なんて漢字も読めるようにならなかったかもな」などと回想する。やがて、自らの昔への旅は青年期に移り、「a good education(優れた教育)」という英語の花言葉を持つ桜の中に、古文の授業風景を甦らせていたのだった。
お経を丸暗記した経験も無いのに、「たり(断定)・なり(断定)・ごとし。ここまで順番通り、お経のように完全に丸暗記して下さい。」と命じられた通り、文法を頭に叩き込むと、お次は早速“実技”に入る。
「それのとしのしはすのはつかあまりひとひのいぬのときにかどです」と黒板に“お経”を書くと、業平の解説がスタートする。
「業平なのに、今日のアペタイザーは『土佐日記』です。六歌仙から三十六歌仙まで広げてみました。あっ、ここで、鼻で笑うも鼻白むも出来ない人は、百人一首の追試が必要ですよ。
ある年の『しはす』則ち12月の『はつかあまりひとひ』則ち21日、まあ一旦ここまではヨシとしましょう。『いぬ』の時に出発する!ここは忠実に訳すなら『出発した』ではなく歴史的現在形です。まあそれも一旦ここでは兎も角、正確な時計も無かった時代、ましてや四国の田舎で、どうやって『いぬ』の時刻って分かったんでしょうかねえ。不思議じゃありません?そもそも『戌の刻』って何時なんですかね?教科書には午後8時頃って書いてありますけど、ホントですかね?折角、古文を習うなら、そういう疑問を解消していきましょうよ。
平安期の日本では、京都だけ定時法、地方は不定時法でした。不定時法は、日昇から日没まで、則ち昼を6等分、これが卯・辰・巳・午・未・申の6等分、日没から日昇まで、即ち夜を6等分していました。これが酉・戌・亥・子・丑・寅の6等分。午前0時、一日の始まりから十二支が始まるというわけで、牛の刻の真ん中が正午というわけで、午前と午後が分かれる。と、ここまでは基本の基ですね。でもねえ、コレ、干支1つで2時間もあるでしょ。相当いい加減なんですよ。6等分というのは勘に頼っていたそうですし、太陽の薄暗い日には掌を観て判断していたそうです。しかも、夏冬兼用だから季節によって2時間より長くなったり短くなったりします。
ですが、ここからが現代社会が失った古文の素晴らしき世界観――実は生活上で便利なところもあるんです。例えば、先生が『今日の部活の練習は申の刻まで』と伝えたら、それは『暗くなったら終わり』という意味ですから、時刻ありきで行動するよりも合理的ですね。文学的にも便利です。例えば、『羅生門』で雨の降り出した『申の刻下がり』って、どうして龍之介は明治も後半の生まれにも拘らず『午後4時頃』と書かなかったのか。それは、味気ないからです。『午後4時頃』と述すと、それだけでは日没が近い時刻なのかどうか曖昧ですが、『申の刻下がり』とすれば確実に『日暮れ前』です。則ち『人間の支配から離れた夜の世界へと近付いてく様子』を効果的に表そうとしたのですね。それでも、敢えてデジタルな数字のイメージが欲しいのであれば、「夕冷えのする京都は、もう火桶が欲しいほどの寒さである」という一文を引き、何となく物語の舞台が晩秋だと理解します。さすれば、晩秋の『日の入り時刻』から『申の刻下がり』の具体的な時間帯が推定できるわけです。
むろん不便な部分もあります。約75年前に過ぎない芥川の作品ですらこんな調子ですから、いわんや紀貫之をや。だいたい日付だって、コレ、正しいには正しいのですが、実際には今で謂う『クリスマス直前』って頃合いではないですよ。承平4年、西暦934年の12月21日――旧暦では12月25日が立春ですから、立春の4日前ということになります。ええっ!じゃあ、時刻の特定云々よりも、まず日付を『12月21日に出発』って訳しただけでは、場面設定を勘違いしちゃいますよね。今年度、即ち平成5年、西暦1993年の立春は2月4日です。その4日前ですから、現在に変換すると2月1日に旅立ったと謂えます。『クリスマス直前』と『節分直前』とでは、読み手の浮かべる雰囲気や趣が異なりますよねえ。」・・・平凡なサラリーマンとして生きる将来にとっては何の役にも立たぬ知識に吸い込まれていく。業平だったはずの先生が次第に貫之に見えてくる。冠を被り、紫の上衣に檜扇を持った貴族が、黒板の前に立っている。
「さあて、少しウォーミングアップになりましたか。では、本日のメインディッシュに参りましょう。」と告げるや否や、何と業平は学生帽を取り出すと、ひとり寸劇を始める。
「一月の十七日、宮さん(みいさん)、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何處で此月を見るのだか!再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何處かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」・・・あまりに迫力あるセリフに、綺麗な着物姿のまま熱海の砂浜へ蹴り飛ばされた宮さん、その日本髪の解れ具合までもがリアルに認められるようであった。言わずもがな、尾崎紅葉『金色夜叉』の名シーン。富のために、許婚の鴫沢宮を成金の中年男に奪われた間貫一が、高利貸しとなり、金の力でお宮や世間へ復讐しようとするストーリー。貫一は学生で、卒業したらお宮と結ぶことになっていて、学費もお宮の家の世話になっていた。ところが、お宮とその両親は、経済力に物を言わせる富山唯継から指輪を受け取り、貫一と手を切ろうとした。これを知った貫一が吐く捨て台詞――これが「再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……」である。
「配ったプリントをご覧なさい。金色夜叉の中でも有名な挿絵です。あんなに繰り返し叫んでいた『今月今夜』の月ですが、別れの二人を照らしていますか?そうです。背景の空には肝心の月が描かれていませんよね。どうして描かなかったのか。それは、味気ないだけで無く、科学的な疑念があるからです。毎年1月17日のお月様は、満月かもしれないし、上弦だろうと下弦だろうと半月かもしれないし、三日月よりもさらに痩せ細った繊月かもしれない。若しくは、貫一が涙で曇らせるまでもない新月かもしれないのです。
惑星である地球の公転周期は365.2422日、衛星である月の公転周期は29.530589日、割り切れる数字ではないので、毎年、カレンダー上の同月同日における月の形は変わります。1月17日に同じ月が出て、同じように曇らない限り、彼の呪いの効力は発揮されないわけですから、彼の台詞は根本的に誤っています。
ですが、凡ミスかというと、そうとも言い切れません。現在の私達が当たり前だと感じている『太陽暦』は、明治6年から使用するようになりました。しかし、貫一、引いては、尾崎紅葉の頭の中には、江戸時代の暦が受け継がれているものと推察できます。そうねえ、例えば日本酒の一升瓶のことをわざわざ『1.8リットル瓶』と呼ぶ人は居ませんよね。お米だって、袋で買うときは『何キロ』と言っても、炊くときは『何合』って言いますよね。たとえ規則が変わっても、人間の風習や文化として古い規則が残り続けるというのは、今の私達にも当てはまることなのです。ましてや、紅葉が生まれたのは、新暦で謂う1868年1月10日――明治に改元される約9ヶ月前、旧暦では慶応3年の12月16日――ギリギリ江戸時代でした。主人公は激怒していたため、単純に自分の頭の中にある暦の感覚で『今月今夜』というコトバが口を衝いて出てきたのでありましょう。」・・・平凡なサラリーマンとして生きる将来にとっては何の役にも立たぬ知識に吸い込まれていく。貫之だったはずの先生が次第に紅葉に見えてくる。厚みのある鼻髭を整え、つり眉にトロンとした瞼を持った小説家が、黒板の前に立っている。
「さあて、それでは本日のデザートをお召し上がりください。最後に暦の深掘りをしてから授業を終わります。
明治6年の太陽暦採用を『太陰暦』を廃止したと解説する資料が少なくないのですが、正確には『太陰太陽暦』のことを指します。
まず『太陰暦』を紹介しましょう。月の公転周期である29.530589日に合わせ、1ヶ月を29日とする『小の月』と30日とする『大の月』を組み合わせて調整しますと、12ヶ月で約354日となります。長所は『月の動きと合致しているから、誰にでも分かりやすい』というところで、例えば『イスラム歴』は典型的な太陰暦です。毎月、新月の一日を『朔(ついたち)』、満月の十五日を『望(もち)』と称し、29日か30日でほぼ新月に戻るというサイクルです。但し、地球の公転周期を無視しているので、季節の廻りからは外れ、何年も経つうちにズレが大きくなっていきます。つまり、太陰暦は農耕民族には不向きな暦です。
一方、今の私達が用いている『太陽暦』は、地球の公転周期である365.2422日に合わせ、1年12ヶ月を365日としているものです。グレゴリオ暦というヤツですが、これは今から400年余り前にユリウス暦を改良し、閏年を400年間に100回ではなく97回とすることで精度を高めたものです。但し、『月の単位が月の満ち欠けと連動していない以上、数字で示されたカレンダーというモノを手元に所有していない人にとっては、その進み具合が判断し難い』という課題だけは克服できません。
そして、古文や古典の授業で主に扱う旧暦というのが『太陰太陽暦』です。29日の月と30日の月を組み合わせて1年とするところまでは『太陰暦』と同じですが、19年に7回の割合で、1年を13ヶ月とする閏年を設定します。先ほど、1太陰年が約354日と言いましたが、『小の月』と『大の月』の組み合わせも毎年コロコロ変わるので、353日だったり、355日だったりします。この状態で、たまに『13ヶ月目』を足して383日から385日の年がやってくるということですね。こうすれば、月の動きと合致する太陰暦の長所を保ちつつ、太陽暦ほどではありませんが季節とも凡そ合致するのです。月日の構成が凄く複雑そうですが、結局カレンダーで数字を確認しなければならない不便さは『太陽暦』と同じことですよ。
因みに、地球の公転周期365.2422日を24で割ると、15.218日。よって、15日から16日に1回の割合で『二十四節気』が訪れます。『啓蟄』とか『白露』とか、ニュースの気象コーナーでしか耳にしないのに、知っているとちょっとカッコイイ言葉ね。24個もありますが、万国共通の基準は『冬至』です。観測によって明確に決められますからね。
では、貫一が宮さんを罵っている月夜の挿絵のプリントを裏返してください。裏には、細かい数字の一覧表が載っていますね。これが、紀貫之が京へ帰った承平4年、西暦にして934年のカレンダーです。日本が自らの天文学の力量で暦を作成することが出来るようになったのは、江戸時代の初期からなんです。それまでは奈良時代から長い間『宣明歴』という中国から輸入した暦を使っていました。このカレンダーも宣明歴です。じっと10秒、眺めてみましょうか。10・9・8…ハイ、気付きました?そう!『立春』が1年に二度到来していますでしょ。これが太陰太陽暦の閏年なんです。まず正月が30日、次に閏正月が29日、続いて2月から12月まで、全部で13ヶ月、年間384日です。どこに閏月を入れるのかは国によって異なります。大の月は、正月・2月・4月・5月・7月・9月・11月――ほら、2月が30日まであるでしょ。気持ち悪いですねえ。
あっ、気持ち悪くなったところで丁度チャイムが鳴りました。午の刻には一旦休憩などと言っていたのが常識だった時代に比べると、このチャイム、非常識なまでに非常に正確ですねえ。私達の生活リズムが秒単位で管理されるようになったことは、果たして幸だったのか不幸だったのか?君達が『古文』を学ぶ際は、常にそういう分析を怠らないようにね。
宿題として、月で始まる歌を贈ります。『月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして』――意味はご自分で訳してみてください。」・・・紅葉は再び貫之に戻り、さらに再び業平に戻った。
月は昔の月では無いのか、春は昔の春では無いのか、私一人だけがあの人を愛した昔のままで、周りの様子はすっかり変わってしまったのか――業平の代表作の1つである。「あの人」とは二条后こと藤原高子であり、住んでいたという東五条院は五条堀川に在ったらしいから、我が家から早歩きで10分くらいの場所だ。高校を卒業して10年も経たぬうちに転勤で京都暮らしが半永久的になろうとは想像だにしなかった。本物の業平がウチの近所で逢瀬を重ねていた頃は旧暦だから、毎春の今月今夜が殆ど同じ形の月だったはずだ。それでも彼はその月を「昔の月では無いのか」と物憂げに問う。それでも私はその春を「昔の春、昔の千春さんでは無いのか」と物憂げに問い、高校時分に恋焦がれた優等生の姿を追う。まったく男というのは、この街が平安京と名乗っていた時代から「私一人だけがあの人を愛した昔のまま変われない」生き物なのだ。
それにしても、まさか「古文」の授業から「科学的な疑念」「地球の公転周期」「天文学の力量」なる見地が飛び出すとは――。剰え、まさか科学嫌いの私が、古文を契機に、ほんの一時であっても科学的なモノの考え方たるものに魅了されようとは――。
論語に「子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」とある。いかなる競技であっても、孔子の時代から云われている通り、「努力は夢中に敵わない」との見解に私は激しく同意している。だから「努力を促すコーチの指導力によって、選手の成長が左右される」というのは真実だとしても、「夢中にまで成れるか否か」は、とどのつまり選手本人の資質や適性に委ねるところが大きいと信じ込んでいる。「練習嫌いの選手を夢中にさせる指導」なんて、虚構の域とは申さぬが、神業の域に違いないというのが今も変わらぬ私の価値観だが、業平先生はその神業を私の目の前で実演してくれた恩師だ。
確かに、どれだけ古文に夢中になったとて、文学博士の道を選ぶわけでも無し、平凡なサラリーマンとして生きる将来にとっては何の役にも立たぬ知識の習得に終わる。然は然りながら、サラリーマンの肩書を捨てた「生身の人間としての人生哲学」を形作るにあたって、感受性の鋭い中高生のうちに「良きコーチ」「良き学び」「良き出会い」に恵まれる経験それ自体は、頗る大切なのだと知った。嫌いで堪らなかった「化学」や「数学」の授業を、オトナになってからも時折思い出すというのは、それだけ私が先生の豊かな個性を吸収せんと夢中になり、苦手科目からも貴重な蓄積をしてきた証だろうと、これもこれで信じ込んでおきたい過去だ・・・つづく