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【刑法(各論)】命をば 流すか拾うか 須磨の海

 大腸癌を克服し退院した私の「快気祝い」を同期や若手社員の面々が企画してくれた。居酒屋で宴席でも設けてくれるのかと思いきや、何と「海水浴」だと言う。何だかんだと快気祝いを理由に皆で遊びたいというだけのことだが、私にはその心意気が嬉しかった。
 「裸になるのって、やっぱ気になる?」と周囲からストレートに訊ねられ、「左右の脇腹と臍の下に腹腔鏡手術の傷跡が残ってはいるけれど、気にして見ないと判らないレベルかな」とこちらもストレートに応えると、すぐさま「遠足のしおり」のような書面がメンバー全員へ配付された。「水着・サンダル・ゴーグル・浮き輪・砂遊び道具・ビニールシート・日焼け止め・スイカ・スイカ割りの棒・包丁・ゴミ袋」等々が「海の持ち物」の項目にリストアップされ、「着替え・下着・タオル・お風呂セット・歯磨きセット・常備薬・花火・ロウソク」等々が「お泊りグッズ」の項目にリストアップされていたが、実に色々なモノが記載されている割に、一番重たかった当日の持ち物は「缶チューハイ」と「氷」の入ったクーラーボックスだった。そう、この海水浴は1泊2日の本格的な企画だったが、全員が酒を飲みたいという事情により、その行き先は電車でも行ける「須磨海浜公園」ということになったくらいである。クルマは便利だけど、ドライバーがノンアルコールで我慢せねばならない上、渋滞や駐車場探しも面倒だ。
 泊りは安い民宿だったが、漁師自慢の船盛が豪勢で、真夏にもかかわらず温燗が進んだ。
 
 「源氏の君のお傍には極めて人が少なくて、誰もかれも皆、寝静まっているのに、源氏の君だけが眠れずに一人目を覚まして、四方の激しい風を聞きなさると、波がすぐここに寄せてくる心地がして、涙が落ちるとは思わないのに、自然と涙があふれて、枕が浮くばかりにぐっしょりと濡れてしまうのであった。傍らの琴を少しかき鳴らし、我ながら実に物寂しく聞こえるので、途中で弾きやめなされて、『恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は思ふ方より風や吹くらむ』(都恋しさに堪えかねて泣く私の声とも思われる浦波の音がするのは、私が思う都の人たちがいる方から風が吹いているからであろうか)と朗詠なされたので、今まで寝静まっていた人々が目を覚まして、源氏の君の歌を素晴らしいとお思いなさるも、都に居ればもっと風流なお方なのに、こんな田舎で歌など詠まれて――という寂しい気持ちに鼻をかむのであった。」・・・源氏物語はつくづく須磨の方々に失礼な書きっぷりだなと思うものの、当時はビーチが黒山の人だかりなんていう賑わいとも無縁だったろうし、もっともここに描かれた季節は秋だ。
 高校卒業から干支が一回りし、初めて須磨まで足を運んだ快気祝いを契機に、ふと私は思い出したのだった。あの回りくどくて退屈な古典の先生は、秋の2~3コマ分だけ「コーヒーブレイク」のような感覚だったのか、「桐壺」から脱線して「須磨」に浮気したことがある。そして、どうやら須磨というのは平安の昔から良い所だったらしい。前半は田舎扱いも甚だしかった表現が、後半には須磨を礼賛する展開となって“名誉挽回”に至る。
 「自分がこのように思い沈んでいる様子をお供の者たちが見れば心細く思うだろうとお考えになり、昼間は何かと冗談をおっしゃって、することもなく所在ないままに、いろいろな色の紙を継ぎ合せて、古歌などを手習いなさったり、または中国渡来の綾絹などに様々な絵を興に任せて描きなさったりしている。中でも、出来栄えの良いものなどは屏風などに貼り付けたりして、それは実に趣があって見事である。
 自分の家臣の者たちが以前、源氏の君にお話し申し上げた須磨の海山の様子を、京に居る時は遥かに想像するだけだったけれども、今こうして目の当たりにご覧になって、源氏の君は、なるほど北山でお供の者たちが言ったとおり、その趣の深さは想像も及ばないほどの磯辺の風景であって、それをまたとなく上手にいくつもいくつも絵画にお描きなされた。千枝、常則といった名人と評判の高い画家に命じて、源氏の君の下絵に彩色をさせたいものだと思うが、須磨には簡単に呼べないことをもどかしく思っている。」
 それにしても、かなり状況は違えども、私達もこうして京都から須磨へと「離京」している点では同じだ。されど、無論お供の者など傍に置かず、自ら荷物を背負い、自ら働いて稼いだ給料で遊びに来ている。まあ、お供を置かないかわりに代金を支払って新快速や民宿を利用している分、巨大経済システムの中に生きる私たちのほうが気軽な旅であることは言うまでもないが、この源氏の君たちが風雅に遊び惚けている毎日の生活費は一体どこから捻出されているのだろうかと言えば、やはり税金だったに違いなく、その搾取っぷりと浪費っぷりは民主社会の比では無かったことだろう。だが、平安公卿として生きていく不自由っぷりもまた現代社会の比では無かったことだろう。人間は暇になると陰険な権力争いや泥沼の恋愛劇を始める。そのことだけは源氏物語から明確に読み取れた。
 京都に転勤して良かったことの1つが「表面上は理解していても、どうしても根っこの部分で上手く咀嚼できていなかった授業内容」が、今頃になって脳内に入り込みやすくなったことである。だいたい京都御所の砂利道すら歩いた経験も無い東京の高校生が、紫式部が石山寺で源氏物語の執筆を構想したと聞いたところで、「ああ、京阪石山坂本線の終着駅か」という地理的感覚も掴めないどころか、その寺が滋賀県に位置することすら知らない。まして須磨と聞いても、「ああ、明石海峡大橋を望む人気ビーチが広がるあの須磨だな」といったイメージなど全く浮かべることが出来ないわけである。そのような観点から云うと、日本史や古典の学習は圧倒的に関西育ちの子供達のほうが有利だと私は確信する。まあ例外的に鎌倉と江戸は我々の得意分野だけど――。
 
 有難いことに民宿の共同トイレには温水洗浄便座が付いていた。S状結腸をカットしてしまった私は、時間帯によって排便が頻繁になるため、この歳にして仲間との旅行にも気を遣うカラダになっていたのだった。しかし、たかがこの程度の代償で、私は今こうして癌から命拾いし、須磨の磯辺の風景の中で呑気にスイカ割りや花火に興じるカラダに戻った。生きていて本当に良かったと感じている。生への執着こそ人間らしさの象徴だという哲学を示していたのは大学の刑法の教授だった。不思議なもので、仲間との楽しい時間を終えた“祭りのあと”みたいな夜中ほど、源氏の君の如く枕を濡らす物思いに耽るわけではないけれど、命を題材にしたあのシリアスな講義を思い出してしまう。これも怪我の功名と言うべきか、私は入院以来、死への恐怖たるものをようやく心底リアルに感じられるようになったみたいだ。いざ健康になってしまえば、再び平穏な暮らしの中で忘れてしまいがちとは申せ、常に「生きること」とは是即ち「死ぬ準備と覚悟が出来ていること」でもあるのだ。
 
 「1940年代から50年代のイギリスにおいては、自殺を悪視するキリスト教的な考え方の影響か、自殺に対する処罰が検討された。ところが、自殺者を処罰するなんて現実的に不可能に近い。よって、自殺未遂者を処罰しようかといった議論に展開する。」・・・刑法各論は2年次の必修科目。「DD」の愛称で学生の人気を集めていた教授の講義は今日も400人以上収容できる大教室の7割を埋めていた。DDとは「ドスケベダルマ」の略で、わいせつ罪関連の解説になると、丸々と肥えた躰を揺すり、その心血の注ぎ方が常軌を逸していたためであった。
 「というわけで、今日は202条、自殺教唆、自殺幇助の話。自殺に関する考え方は主に5つ。1つ目は、自殺そのものは当人の『死ぬ権利』によって犯罪ではないにもかかわらず、何故その教唆・幇助が犯罪なのか?という疑問だけ。2つ目、しかし『死ぬ権利』というのは自分自身の決定に基づくものであって、自殺を唆すのは他人の判断領域に足を踏み込んでいることになる、則ち自殺とは放任行為であるとする見解。3つ目からは少数説だが、自殺自体が可罰的違法性を帯びているとはいえないとするだけの解釈。これ、少数の中では有力説。4つ目は、自殺もその手助けも両方『違法性あり』とし、自殺のほうは責任阻却事由とみるもの。5つ目は犯罪成立の構成要件自体に該当しないとの考え方だが、これは問題から逃げている卑怯者の理屈だから無視。
 では、具体例に入る。AがBに対して『貴様みたいな人間は自殺してしまえ!』と言ったが、Bにその気は更々なかった。このような場合でもAは自殺教唆の未遂として処罰されるのか?いったい自殺の教唆・幇助とは、どこからが処罰の対象範囲となり得るのか?日本の刑法学説の多くは共犯従属性説を採用している。この考え方を当てはめれば、Bを唆した時点では犯罪が成立せず、Bがいよいよ自殺に着手した時点で初めてAが処罰されることとなる。従属性説の中にも『より積極的に人を自殺へと駆り立てる行為』でなければ罪を問えないとする立場もあるが、具体的にどのような行為を指すのかが曖昧である。
 この事例で、先程の5つの考え方を振り返る。
 まず3つ目だと、Aを処罰する理由が上手く説明できない。自殺が可罰的違法性を帯びていないのに、それを唆したら罰を受けるというのか?そもそも可罰的違法性の観点から自殺の場面について論じようとするのが難しい。例えば、崖から飛び降りようとしている人を後ろから抱き止めるといった行為について、自殺に可罰的違法性があるとすれば、抱き止める行為は『正当防衛』と解釈できる。一方、自殺に可罰的違法性がないとすれば、抱き止める行為が『暴行罪』になってしまうのではないか、などと云う学者までいる。総じてこの手の議論は馬鹿馬鹿しい。自殺を止めて何が悪い。
 4つ目も根拠に乏しい。『自殺に違法性があるのだから、その手助けにも違法性があるのだ』としてしまう考え方なので分かりやすいが、『本人が死を選びたがっているのに、どうしてその行為を違法とするのか?人間とはそう簡単に死を選ぶほど愚かな動物ではない。』といった批判がある。さらに加えれば、もう今にも自殺しようとしている人にとっては、自殺に違法性があるわけだから、その局面において迫られる選択が『死』か『犯罪』かに限定されてしまうことになる。」
 それにしても法学部の講義というのは「理屈」に「理屈」を幾層にも重ねたバウムクーヘンのようなもので、次第に大学がつまらなくなっていったのは、私自身の怠惰もあったが、まあオトナとなった今振り返ってみても、それこそ「理屈」に適ったことだと承知する。聊かなりとも興味を持てた刑法ですら「法曹界を志すわけでもない私の人生に202条が関わる機会は最初で最後、今日だけのことだろうな」といった虚無感がこのバウムクーヘンの層の間を徐々に蝕んでいく。だが、この日のDDは自慢のエロネタを封印し、命について語り続ける。
 「医療行為においては、患者の自己決定権を尊重すべきというのが基本的な考え方である。則ち、専断的医療行為の禁止である。
 では、具体例に入る。患者が意識不明につき、患者の自己決定権を尊重しようにも出来ないときは?――この場合、患者に意識があったと仮定し、その医療行為に『ハイ』と合意しただろうと考えられるならば、推定的承諾として当該行為に踏み切れるとするのが多数説である。
 次の例。日頃より『私は指を失うくらいなら死んだほうがマシだ』と口癖のように言っていたピアニストが意識不明で病院へ運ばれてきた。その原因は指の黴菌にあり、患者の指を切らない限り、やがて猛毒が全身に回り、死を免れない程の状態である。この場合はどう処置すればいいのか?――人間たる者、実際に生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされてみないと、その時その立場における判断など分からないものであり、患者の意思を推定することなんて難しい。『指を失っても生きたい』『指を失うなら死にたい』そのどちらを選択するのかなんて推定できない。そう考えると、指を切ってやることは、寧ろ本人に自己決定権のチャンスを与えていることになる。指を切られて助かって意識が戻った時点で、生死の判断は本人に任せればよい。結果として本人が自殺を選択しても、当然ながら指の切断という医療行為が自殺の教唆にも幇助にも該当することは無い。
 ところが、次の例はどうだろう。先のピアニストがコンクールの成績不振で悩んだ末、全ての指をカットして自殺しようとし、これまた意識不明の重体で病院へ運ばれてきた。すでに指から黴菌が入り込み、根元から切断すれば命は助かる。この場合も切っちゃって良いのか?――その答えはもちろんOKということになる。人間というのは、たとえ自殺しようとしているその瞬間でも、心の何処かで助かりたいという願望を潜在的に持っているものなのです。冬になると投身自殺の件数が少なくなったり、今は元気そうな人でも実は手首に躊躇い傷があったりするのも、そういった生への執着の表れと云えます。さすれば、死にたいという人に対して如何なる救済措置を講じても、それは自己決定権を尊重することに繋がるのであります。
 私は、左右の足の真ん中に生えているこの身窄らしい足であっても、切られてしまうくらいなら左右の足を切られるほうがまだマシだと考えています。いざ切らねばならぬ折には、せめて沈魚落雁の女医さんに『ちょっぴり痛むわよ』などと耳元で囁かれながらバッサリお願い申し上げたきところであります、ハイ。
 さて、来週までの課題を出す。A子が『どうしても貴方が死ぬのなら、私を先に殺してからにして!』と泣き叫んで懇願するため、B作は止む無くA子を殺めた。この場合のB作は、刑法202条後段の承諾殺人に該当するのか?それとも通常の殺人罪に該当するのか?簡潔に見解を用意しておきなさい。いや~、いいですなあ。私も是非A子さんみたいな情熱的な女性と、この“真ん中の足”を武器に一戦交えたきところであります、ハイ。では、答え合わせは来週に。」・・・ラストスパートの追い上げでDDらしさが炸裂し、講義は終幕となる。
 
 自ら命を絶ってしまった美春さんの新盆は、私が癌から命拾いした15年後の夏だった。私が敬愛してやまなかったその美しき命の分まで私は勝手に引き受けて、精一杯命の華を輝かせると誓う。
 死への覚悟があればこそ限りある命を粗末にしない――DDの刑法には武士道精神が鏤められていた。私は武士でも公卿でも何でもないが、死生観だけは斯くありたい。たまには酒に酔って、息苦しい会社生活に自暴自棄となることはあるにせよ、自殺ってそう易々と出来るものではない。いったん浜辺が夜中の暗闇に包まれてしまえば、いくら海水浴シーズンの須磨とはいえ、寄せる波に飲み込まれてしまいそうな畏れを秘める。例えばこの畏れを眼前に、岸辺に立つ私が投身を図るような真似をするだろうか。いやいや、その心配にはまず及ばない。それどころか、私はきっと「持ち物リスト」に記載されたゴーグルと浮き輪、そして「生への執着」をご丁寧に手放さずに居ることだろう・・・つづく

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