砂場の縁に座っていたら新しい自分が顔を出す
“生き急いでる“と言われていたほど、予定を詰めこんで、効率的に動きたかった、、いや、じっとしていられなかった。そんなわたしが、今日も誰もいない公園へ来て、砂場の縁に腰かけてかれこれ40分ほどが経つ。
1歳の息子は今、砂場から大好きな石をせっせとすべり台の着地点に並べている。時々石をすべり台に落とし、ステンレスのカランという、耳につく高い音を聞いて笑ってみたり。石に顔を近づけて「うぉー!?」と言ってみたり。とにかく楽しそうな後ろ姿が見える。
石並べの前に遊んでいた、砂浴び遊びのおかげで帽子と黒いTシャツは砂でまだら模様になっている。本人はいろんなところに砂がついていることは不快に感じないようだ。
ふと、息子がその石たちをすべり台の端へ並べ出した。なにをするのやら…
空いた真ん中のスペースを逆さにのぼっていこうとしている。「そりゃ無理だろう。」心の中で思う。一応すべり台の手すりをもって、靴の裏をすべり台につけて、右、左、「おっ。」2度目の右が出たところで、ぷしゅー。
オムツで膨れたおしりが滑り落ちて来た。そのお尻に押されて、わざわざ端に並べた石も砂場に落ちる。
すべり台から降りて砂場に立った息子は、振り返って石を探している。「あーその石たちは君のおしりに押し出されて砂場のなかだよ。」心の中で思うが、思うだけ。
しばらくキョロキョロした息子は、案外あっさりとその場を離れた。
自分はこういうことが出来ないと思っていた。つい、自分が動きたくなる。自分の時間を他者に使うというか、、じっと他者を見守ったり、待ったり、そういうことが苦手だと。
でも、今わたしは毎日ただ息子を見ている時間を過ごしている。初め積極的に一緒に遊んだが、わたしがはいると遊びが面白くなくなる感じがするし、なんといっても息子にあっち行け的なことをされるのでやめた。
そして、1番不思議なのはこのじっと見ている時間が充実しているのだ。
息子は身体が砂まみれになっても気にしないのに、石は几帳面に並べるのね。
とか
公園の隣の家から聞こえてくるピアノの音。ぁあピアノの音ってきれいだな。
とか
木陰で風にあたると外でも全然涼しいな。
とか
こんなに色んな鳥の声って聞こえるんだ。
とか
息子と一緒に居られて幸せだな
とか。
息子と一緒でないと、こういう時間は過ごせなかった。息子と一緒だから、こういう幸福な時間を知ることができた。
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