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女子高生と募金箱が鳴る音

 チャリティー活動には、無欲で献身的な人々の姿を思い浮かべることが多い。しかし、わたし自身はそのような崇高な行動をする自信がない。

 匿名で大金をポンと寄付する人や企業のトップ、土砂を掻き分けて被災地へ貢献する方々を純粋に凄いと思っている。



 高校時代、秋になると生徒会と各クラスの学級委員は朝の駅前で赤十字の募金活動を手伝っていた。

 その中にわたしがいて、通勤時の社会人へ声をかける。
声出しは陸上部の応援で慣れており、苦でないが大声を出しただけでは誰もこちらを向いてくれない。

 電車やバスから降りた同じ高校の人たちは
「お前、なにやっとん?」
「まじか〜⁈」
わたしの日頃の素行からチャリティーなどの清かな魂は見当たらない。

 声をかけるたびに、周りに笑い声がしてくる。
中にはわたしを冷やかす声や言葉もあった。

「ももまろのくせに〜」と大笑いされて、
周りの生徒の手前、わたしはおとなしく
「お願いします」大声をあげていた。

 みんなは散々わたしを笑ったあと
「がんばれよ」

 いくらか分からないが、募金箱へ小銭が落ちる音がする。小銭が落ちるたびに両手へ実感する。

 普段、話をしたことがない生徒までわたしのところへ募金をしてくれた。
「凄く、凄く嬉しい! ほんまにありがとう」
心細かったから、声に力が入った。

 小銭が落ちる音は心に響くかのように、助け合いの温かさを感じた。

 わたしを冷やかしたのに、口を利いたことがないのに、お金を入れてくれた。
それを見ていた大人も財布を出して募金してくれた。

 どうしてだったんだろう。
みんなの真意までは考えた機会はなかったが、これが助け合いなんだと感じる。

 自分ができることから始める。
チャリティーをやっている人を見かけて
「じゃ、自分も」
小さな金額だろうが、善意をくれた。
善意が善意を引っ張って寄せてくれるような、小さな行動でも誰かに影響を与える。

 高校時代の経験はやがて、日本や世界の天災などわたしに負担にならない募金へと続いている。出来ることをやって、少しでも役に立てばという、明日にでも忘れる善意だけど。

 チャリティー活動は特に強い想い入れがなくても自分が飲みたいコーヒーを誰かにご馳走する気分でやればいいと思っている。



 ただ、「チャリティーとは?」で浮かぶのが、善意を日本人はSNSで叩く。
ソフトバンクの孫正義会長やUNIQLOの柳井正会長、楽天の三木谷浩史取締役が桁違いの義援金をしても、杉良太郎さんや紗栄子さんのような有名人がボランティアで汗を流しても、在日だの売名だの、ここぞとばかりに叩く人がチャリティーを邪魔して正義になっている。

 昔からの事なかれ主義との親和性があり、
政府がやるでしょ、お金持ちがやるでしょ、叩かれるのは有名税とそれらへ関知しない。

 根源はチャリティーのお金が本当に困っている被災者へ届いているのか疑問が発露だと思う。
よって、大金の支援があっても汗水流しても
本当に届いているか分からないものへの猜疑心は拭えないように思う。

 ただでさえ、所得が少ないのに物価高で庶民も苦しい生活をする中、チャリティーは壁が高く、他人を助ける余裕がないのが現状だ。

 チャリティーまでのプロセスへ改善の余地があるのに放置して、チャリティーとは資産家の道楽としての認識を改めないと被災弱者は切り捨てられるのではないかと考える。


「ほんの少し」が今日の誰かを助けて、支えになっている。
 わたしの小さな行動が、誰かの助けになっていることを信じてこれからも続けていきたい。