小説: ペトリコールの共鳴 ㊱
最終話 ペトリコールの共鳴 ⑤
都心へ向かう帰りの電車は土曜日で空いていた。
膝に乗せたリュックのポケットはメッシュ素材になっており、キンクマが熟睡する姿が見える。
ペットショップでひとりぼっちだったキンクマと
妻に依存していた俺は、人生において最悪な状況や事件を一緒に乗り越えた家族だ。
キンクマはキンクマで、人間との生活は言語とネットを駆使して自立してきた。
そして俺はどうだったか。
俺は遥香を頼り、頼られるのがアイデンティティになっていたんじゃないかと思う。
自分の存在証明が強化された矢先に断たれ、そこから発生した淋しさを見抜いたのが愛羅。
自分が何者かの手応えがほしくて、言いなりになること、相手を甘やかす行為が結果として最悪な事態を招き、キンクマまで巻き込んでしまった。
相手なり他人を通して得る自分の存在意義の浅さ。利他的とは耳には響きがよい。
しかし、生きるために必要な自己認識ではなく、
他人に消耗されて食い尽くされながら自己認識するのは本当に卒業したい。
事件のことは検察、弁護士、裁判所へ委ねても、
俺自身のことは俺が変えていかないと前には進めない。
キンクマが居なかったら、俺は愛羅への恨み辛みと未練で前には進めなかった。キンクマとの対話が自己対話に繋がり、意識を変える機会にもなった。
そして今日。キンクマとの旅。
過去の嫌な記憶に足をつけて振り返る時間。俺はここからも逃げていた。
事件を凝視すると見えてくる、俺の弱さ。
何をどう改善していけば良いかまで今日は得た。
もう騙されないとは思ってない。
またいつか騙されると思って自覚しなければ、忘れた頃に騙されるぞ。
いいか二度とキンクマを悲しませるな、俺。
三軒茶屋に降りて小雨が降っているのを知る。
「なんか匂いがする」
胸側へ抱えたリュックからキンクマが話しかけるが
俺には匂いが混ざって、よく分からない。
「どんな感じの匂い?」「土っぽいような」
「ああ、ペトリコールか。
雨降りの匂いで、アスファルトが濡れたときに
辺りへ立ち込めるな」
「いい匂いだね。雨とアスファルトかぁ」
「ペトリコールが好きって人もいるよ」
洗われる匂いは、何かの始まりを予感させる。
「タツジュン。
タツジュンと遥香と僕、ペトリコールみたいだね。
雨とアスファルトが共鳴して匂いを出すみたいに、
僕達もお互いを想う気持ちがペトリコールに似ている気がするんだ」
「そうか?共鳴ねぇ」
「うん。僕達はペトリコールの共鳴している」
ー完ー