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ショート: 親切が怖くなった理由

 後ろから追いかけて来たのは、同じアパートの住人であろう二十代後半の女で
「落ちましたよ」
俺に差し出したのは、部屋の鍵につけたストラップ。

 後日、女が駅に向かっているとき、女がバッグから財布を落とした。
慌てて俺は財布を拾い、女の肩を叩くと
「財布を落としましたか?めっちゃ助かります!」

(今、この女「財布を落としましたか?」って言ったよな……) 得体の知れない違和感がある。

 こんな偶然があったのち、女の方から礼がしたいと言ってきた。財布がなければカードを紛失した手続きやとりあえず金がないと困るのは判るが、礼をされるだけの労力に見合わないと断った。

 翌日、女は「それでは気が済まない」
タッパーにおかずを詰めて俺の部屋を訪ねて来た。しかし、気が進まない。丁重に断ると
「私と一緒に食べてくれませんか」
……諦めが悪い女だと思いながら、一回だけならいいだろうと部屋へ入れた。

 大小三つのタッパーへは、ポテトサラダや肉じゃが、市販のたくあんが蓋から溢れるほど詰めてあり、女と直箸でそれを小皿にのせて食べる。

 俺から特に話す話題がなく、女は自己紹介を始め、勤務先や過去の恋愛歴など、一人で話しながら笑っている。笑いながら話す女はごく普通の人に見える。

 全く興味がない話をお愛想程度に返事をしていると、なぜか生年月日を訊かれて、女ははしゃぎ出した。
 俺の過去を聞き出そうとする女の距離感がなく、
馴れ馴れしい言葉遣いが耳についた。

(早く帰ってくれないかな)
たくあんだけではなく、他の惣菜もスーパーで買い出ししたような味に箸を置く。
(ちゃんと断ればよかったな)後悔は先に立たず、
どうでもいい女の話へうわの空。

 春先から花粉が舞い、目や鼻が痒く、片鼻が詰まり、人中へ鼻水が流れる感触がする。
「ちょっと、すみません」

 俺は左手を突いてテレビの横にあるティッシュを箱ごと取った。女は話をやめて見ている。
ティッシュを引き抜き、顔に充てようとした対面で女は着ているセーターを脱ぎ始める。

 うっすら脇の下が色づいて、真っ黒のブラになった女がテーブルに沿って四つん這いに俺に近づき、反射的に俺は後ろへ仰け反る。

「何、考えてるんですか!」声を上げると
「財布を拾ってくれたお礼です」俺のベルトへ手を伸ばして来た。
「俺はこういうのを望んでないんですよ。出て行ってもらえませんか」
「でも……」と言いかける女へ
「本当にいいから」語気が強くなる。
「えっ⁈ いいんですか?」女が体重をかけてくる。
「よくないんだよ!帰ってくれ!」

 心臓が飛び出しそうになり、女を蹴飛ばし、無我夢中で俺の方が部屋から出て、隣人と鉢合わせてしまい、怪訝そうな顔をされた。

 そうして俺は今、留置場にいる。
女が嘘の通報をして、俺が捕まってしまい、国選弁護士を呼んでもらった最中だ。

 先に留置されていたオッサンも
「あなたと同じですよ。若い子のイヤホンを拾ってあげて、“礼”を断ると、これですからね。
世知辛い世の中ですよ、証拠がないのに通報と先入観で拘束されて」

 俺たちみたいな事案が増えていくんでしょう。
「人に親切心を持たなければよかった」
硬い壁に縋りながら、二人は肩を落として語った。

俺たち、何か悪いことをしましたかね?