掌編: 霧にいた二十年
霧の朝を車内で迎えた。
二十年記念日は雲海を見ながら過ごしたい、
そんな夫の要望で日付が変わる頃には家を出て、車内で眠っていた。
目覚めると辺りは霧の中。ほんの数メートル先が幕を張ったように不透明。対向車のヘッドライトも白味がかってマイルドな光を射す。
めくる風景は山林で、枝がない真っ直ぐな杉が整然と緑を成していた。
「もうすぐ着きますよ」
夫は正面を見たまま、私の起きた気配で声をかける。
「山ってもっと鬱蒼としているかと思いました」
ドリンクホルダーから取るミルクティーは温く、渋みが増していた。
「20年間、ありがとうございます」
改めて夫から礼を言われると他人行儀のような、
こそばゆさより不安がかすめた。
「私こそ、ありがとうございます」
初めて夫の苗字で呼ばれたときを思い出して、20年の流れは速かったと振り返る。
特にこれといった出来事はなく、普通の夫婦はどうなのだろう。再び夫が私へ礼を言うと、二人で幸せを確かめる、苦難を乗り越えた経験がなかったと侘しさで唇を噛む。
「私の方こそ、お世話になります」
変わらず景色は霧が先へ幕を引き、目的地が見えぬまま、蛇行する道を車は走る。
「香苗さん。
今日でレンタル家族の契約は終了になります。
最初は20年の年月で情が湧き、本当に結婚するかもしれないなど夢を見た時間もありましたが、
香苗さんの理性のお陰で体裁が整い、無事に定年退職を迎えます。
時代の変容でようやくホモセクシャルなどが社会へ認知されるものになり、退職と同時にパートナーと同居するのを決めました。
香苗さんもどうかお幸せになってください」
容姿や経歴に恵まれず、男女交際が未経験だった私は、少しでも異性のそばに居たい、自分の家族を持つ経験がしたくて契約結婚の職を選び、既婚者の肩書は私への扱いに信用を生んだ。
夫の身の回りを世話しながら、ほんのちょっと恋心が芽生えた。しかし同性を好む夫へ私の好意は届かず、身体中にシワやたるみができるたび、本当なら老いで諦めることが形だけでも得たのは幸いだったのかもしれない。
人生の霧が晴れる。そこには齢71歳になる私がひとりぼっちで取り残される現実が待っていた。