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アホに持たせてはならないのが『多様性』

 アホに持たせてはならないのが『多様性』

 リアルの友達Aが、
おかしい話なので聞いてほしいと連絡してきた。

 Aの話によると、上司は出張中。
Aが席を外している間に、
同僚Bが勝手にAの自家用車で外出し揉めたという。

 Aが責めると、同僚Bは
「多様性の時代にAは頭が固い」
BはAを理解しない者として、
その後もBはちまちまと嫌味を言ってくるそうだ。

 会社の人たちは屋内にいて、
Bが社用車で出かけたと思い込んでおり、
Aの机にある自家用車の鍵を持って行ったと聞き、
唖然としたらしい。

 多様性の乱用が、身勝手な言い分にも及ぶのか。

確かにSDGsが世間に流れ出した頃、ネットでは
「小児性愛を認めろ。理解せよ」とあったな。
 Aの事例も、意味の曲解どころか、
分からないことを知ったかぶりした結果に思えた。

 多様性とは「理解し合う」という誤解が広がり、
いつかトラブルが発生するとは思っていた。

 Bの理屈が通るなら、闇バイトの犯罪も多様性で済まされてしまうし、法律や倫理に反することを多様性に加える考え方がどうかしている。

 Bのように理解し合うことに固執すると、
かえってAの所有物を勝手に使うという、
Bの価値観の押し付けとなり、
AとBの中へ摩擦や誤解を生む原因となる。

 多様性が互いに理解し合うことではなく、
異なる考え方や文化が存在することを認め、
そのまま受け入れるのだとしても
「世界にはさまざまな人がいる」と
認識してはならないラインも存在する。

 Bのような異なる背景を持つ人々の考え方を完全に理解するのは難しいし、自分とは異なる人々が共存することを許容する考え方が多様性として、理解の有無に関わらず共存が望ましいとしても。

 結局多様性とは、
異なる価値観や背景を持つ人々が共存することを認めることであり、単に理解し合うことではない。

 Aの出来事からも明らかなように、
Bの行動は多様性の誤用で、他者の権利を侵害する。

 多様性を尊重しつつも、
法や倫理の枠組みを厳守するのが、
社会では互いの違いを受け入れながらも、
共存のためのルールを明確にし、
理解を深める努力が求められると思う。