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失言の後に見えた『気持ち』
友人の悲しみに寄り添うことができなかった。
申し訳なさと友人の心の痛みを想像すると胸が苦しくて、反省を記す。
去年から友人が会社でパワハラに遭っている話は聞いていた。先輩からのエゲツない言動で友人が鬱っぽくなりながらも「仕方ないよね」とパワハラする先輩へ諦めに似た言葉で締めていた。
先日のこと。
友人はまた先輩から酷い言葉を言われた。
「その先輩って、どんな人?」
これがわたしの失敗ポイントだった。
友人は先輩のInstagramのアカウントをLINEに送ってくれた。
「この人が先輩?」思わず
「へぇ、優しそうに見えるね」
電話の向こう側が沈黙し、鼻をすする音がした。
友人は明るいムードメーカーだ。
色で喩えると、黄色やオレンジ色した友人はけして繊細さんなどではなく、元気いっぱいという人。
その友人が黙っている。
長期に渡るパワハラはそんな明朗な彼女を蝕むほど、執拗に行われていたにも関わらず、
わたしはその先輩を肯定するひと言を発して、彼女を追い詰めてしまった。
わたしは鈍かった。
昔を思い出すと、わたしは同僚から
「嫌がらせされているね。
あの人は可哀想な人なんだから、諦めなさい」
会社でパワハラされていた時代に言われた。
他に言いようがないので
「そうですね」と言っておいたが、何か違和感があった。
同僚の言葉が意図していることと、わたしが感じていることの間にギャップがあると違和感を覚えるのは自然だ。
整理して考えてみると、
同僚はわたしを心配しているようで、相手に対して同情的な視点を持っている気がする。わたしの気持ちを軽視していると感じた。
パワハラを受けている状況で、相手への同情を強調されると、わたしの痛みが軽視されているように違和感になる。
例えば、痴漢された人がいて
「痴漢した人はストレスがある可哀想な人なのよ。
諦めなさい」と言われて、痴漢にあった人が
「そうですね」と言えるか、こういう違和感。
寄り添ってくれているようで、これって
嫌がらせしている人への寄り添いだなと思った。
あのとき、同僚にはわたしの気持ちを理解してもらうために、もう少し具体的に話してみるのも良かったのかもしれない。
「わたしの気持ちを理解してほしい」と伝えたら、
同僚は違った言葉を言ってくれたかもしれない。
友人のケースも、友人の感情や日常を尊重し、
パワハラについて、もっと自分の身に置き換えて考えたら失言はなかった。
違和感を覚えるとは、自分の感情を大切にするサイン。進行形で抱える感情を無視せず、しっかりと向き合っていく。そしていつか活かす。
ひと言間違えたら、嫌がらせする人への同情。
被害者の痛みや苦しみを軽視し、加害者に同情を寄せるのは被害者の気持ちへトラウマを引き起こすのではないかと考えてしまう。
誰もが様々な背景を持っているが、それが加害行為を正当化する理由にはならないし、被害者の視点を重視して、被害者の感情に寄り添うことが大切。
第三者が加害者を「可哀想な人」とすることは加害行為を軽視してしまうことがある。
わたしが友人の先輩へ「優しそうに見える」発言は友人にとって非常に不快に感じたと想像する。
被害者の違和感は正当なものであり、周りはその感情を尊重する。
わたしは友人の問題へ論点を逸らしてしまった。
今、とても悔いている。