小説)覚醒へのプレリュード ④
←前半
2022年1月29日
風呂掃除の最中、スマホの着信音が響き渡る。
見覚えのある番号に目を向け、
私はなにげなく電話に出る。
「たった今、ご主人が息を引き取られました。
弓部動脈瘤破裂が直接の死因です」
夫の突然死に私は呆然と立ち尽くす。
ウイルス感染から、予期せぬ形で亡くなった。
自堕落な生活が招いた結末に、自己責任の重圧が押し寄せる。
風呂の窓から結晶が擦れ、ぼた雪が音をなす。
網戸に着く雪は溶けずに留まる。
目に映る景色が凍てついたように感じられた。
役所の職員によって雅彦はその日のうちに荼毘にふされ、白い布に巻かれた骨壷は玄関先へ置かれた。
なんか、
それだけでとんでもなく恐怖のウイルスに感染していたのが判る。
義父の家で二人きりの葬儀をしてやり、
雅彦への偏見で苦しんでいた義父を嫁の私と見送るのがいいように感じる。
親族から通夜や葬儀で雅彦のゲイを蒸し返されるのは容易に想像できて、これ以上義父を追い詰める必要はないと思えるからだ。
義父へ畳み掛けるように
「先日お預かりした土地家屋の権利書はお返しします。名義は私が法務局へ出向きますので書き換えますね」
今、このタイミングじゃなくて良いのに、
私は一刻も早く、松岡家から出たかった。
もう雅彦の痕跡がある場所なんかに居たくない。
葬儀の翌日からは雅彦の荷物を中心に、家財道具をまとめて捨てる手筈をする。
夜になると雅彦の生命保険などの手続きに終われ、
駆け抜けるような1週間が過ぎた。
2022年2月6日
スーツケース1つとダンボール箱3個の荷物が完成した朝。今日から忌引きが明ける日。
警察から電話があった。
今朝、新聞を取りに庭へ出た義父がそのまま倒れて亡くなったらしい。
着の身着のまま自転車で義父宅へ向かうと、救急隊や見知らぬ医師、警察官に囲まれた義父が担架に乗せられる前の状態。
見知らぬ医師は義父のかかりつけ医で、義父は持病の影響で急死したと説明があった。
恐らく大動脈瘤破裂じゃないかと簡単に説明してくれた。
近所の住民が入れ替わりこちらを見ている。
なんとお騒がせな父子なんだろう。
義父の荷物を整理し、遺品を処分する準備を始めた。葬儀も素早く執り行い、親族との接点を最小限に抑えられ、
なるべく早く更地にし、土地を売ろうと決めた。
雅彦には最期まで下僕に使われた。
私が嫁いでから日が浅かったので、義父の相続手続きを早期に進め、
争いを避けるため一人で対応した。
相続は私への慰謝料だ。
2022年3月15日
パートを退職した私は、これからの人生について不安を感じていた。
しかし、同時に新しい生活への期待も膨らんでいる。
優とマリンがいる家に帰りたい。だけど私に人を見る目があるのだろうか。
雅彦がゲイであるのを見抜けなかったように、優にも何かあれば、また私は傷つく。
かつての優は時代の寵児で、派手な生活を送っていたことを想像すると、私は不安を感じずにはいられなかった。
日本において女性の若さが過剰と思われるほど重視されて、人が繁殖するのは重要課題になっている。
お付き合いするなら、ある程度年代が近い人のほうが生きてきた時代が同じで価値観は近い。
話題も共通し、似たようなライフステージにいるので話が合うのだが、結婚となればまた別の話になる。
優と私は5歳の差で、同年代には同年代の良さがあると思う。
しかし男性は若い女性に執着する人が多い。
理由はなんだろう。
私から見れば自信のなさによる気がする。
雅彦は同性を愛しても、世間一般の価値観へコンプレックスを持ち、30代の私を選んだ。
特に30代ぐらいから女性はしっかりして、男性よりも仕事ができる人がいる。
そして家事をこなせると男性は劣等感や自信のなさから、若い子を選びがちになりそうだ。
私は34歳まで結婚しなかった。
同世代の男性は私より頼りない印象があり、でも出産できるうちに結婚したいと思うようになった。
結婚はそんなに大切なんだろうか。
婚姻生活があんな風で、このまま独りでもいい気がしてきた。
実家がある荻窪へ帰り、管理栄養士の資格を活かしながらふわりと生きていくのも悪くない。
実家の母は既に他界した。家には弟家族がいる。
帰りたくないな……。
退職でスタッフからもらった花束がバケツから顔を出す。真紅のバラは青いポリバケツで快適そうに四方八方へ花の顔が向いている。
花瓶に整う花束は美しい。
でもバケツのバラの葉は天井を仰ぎ、それぞれに開くバラは私の欲しかった自由を体現したようで、今の私へ未来を示唆するように見えた。
思いつき、スマホから通話する。
電話の向こうから「はい」と聞こえ、
「優さん、私です。菜月です」
まだ20時。優は起きてマリンと遊んでいる。
「なっちゃん?本当になっちゃん?」
思っていたより元気な優の声がして
「今、どこ?そっちへ行く」
「寒くない?」
優の肩に布団を引き上げて掛けてやる。
「そうだ」この家には雅彦と私が住んでいたが、
男と女の匂いがしなかった。
今更ながら気づく。
飴色になった天井を人の体温を感じながら見たことはなかった。
優はざらつく脚を私の脚へ絡め、私の頭を抱えて唇を欲してくる。
「ねぇ、私、この家で何回致したと思う?」
「さあね。新婚さんだったんだろ」
「そうね、去年1月に出会って3月に入籍して。
4月にこっちへ引っ越して同居したの」
「ふ〜ん。旦那さん、歳上だっけ?毎日かな」
「普通、そう思うよね」
「まあ」
「正解は、ゼロ回」
「出会ってからヤリ過ぎたんだろう」
「ううん、近寄るなって言われてた」
「ウソだ〜」
「本当だよ。
チヤホヤされて食事は奢ってくれたけど」
「マジか……」
「私、どうしたら上手く生活が進んでいくのか、
ずっと悩んで。でも、浮気されちゃって」
「新婚で浮気はキツいな」
「夫がこちらの支社に転勤した日からまともに家へ帰って来なかったわ」
「なっちゃん、男見る目がないとか?」
「そうかもしれない。だから今悩んでる」
「なにを?」
「優さんの所へ戻っていいのか」
「なるほどね。
なっちゃん、俺らが暮らした月日はどうだった?
不安や不満があった?
それが答えじゃないのかな。
俺はなっちゃんとマリンがいて充実してたよ」
「優さんには恋人はいなかったの?」
「ふはは。こっちへ来る前はいたよ。
昔はそれなりにモテたさ、出所してからも。
でもね……」
「でも?」
「なんか女って疲れるんだよなぁ。
気分の波が平坦じゃないでしょ?
ハリネズミのジレンマとか言うけど、女ってハリネズミじゃん」
私は優の方へ姿勢を変え、優のピアスを弾きながら
「女って主語が大きいけど、当たってるよ。
それとね、本音を言う人はいないけど、
優さんは派手な生活をしていたと思うし、私みたいな女のどこがいいのかなって」
優はピアスを弾いていたを手を握り、目線を遠くへやった。
「みんな言うよ、俺のことを派手な暮らしとか。
言っちゃうけど、俺はオカンや姉ちゃんと同じ幼稚舎からエスカレーター式で大学卒業して、
ほんで生まれたときから南麻布に住んでたら、
そんなもんかなぁと思うわけよ。派手というより普通なの」
「じゃ、優さんと私は別世界の人だね」
「それはなくないか?同じ人間よ。
港区は日本です。みんなと同じ人間で、生まれた場所や進学先を色メガネで見てるのはどっちだよ。
利便性はいいし、恵まれてるのは否めない。
だけど人だから個人差で性質が異なるってのを理解してもらいたいかな。
俺はなっちゃんが好き。理由、いる?」
「うん。私を信用させてほしい」
「あえて言うならね。
マリンを拾った日を覚えてる?
なっちゃん、サンダルのまま草の中に入って、
汚いマリンに嫌な顔ひとつせず、ホームセンターの前で抱っこしててさ。
『この人は強くて菩薩みたいな人』
俺にはタトゥーが入っていても気にしない力量。
色んなことへ寛容で、穏やかに居られる人だと。
すぐになっちゃんが好きになった」
「そうなんだ」
「そうだよ。さっきの話と絡めるとね、
人は人へ嫉妬ばかりする。自分のことばかり考えていて、他人を助けようとしないじゃない。
でも、なっちゃんは違うから」
「そんなことはないよ」
「そんなことがあるんだって。
あとね、昔から知ってるような、
なっちゃん抱くと気持ちいいだけじゃなくて、
帰るべきところへ帰ってきた感覚になる」
「なにそれ?」照れから笑いが漏れる。
「ああいうのって、相手が違う女でも大きな差はないよ。
だけど自分が相手と、常識とか言葉とかを超えて繋がっていると確信したら、自分を縛っているものから解き放たれるのよ。なっちゃん分かるかな?」
「ごめん、分からない」
「じゃあ、分かって」
マリンはケージに入ってまん丸の造形をなして、
バケツのバラのような、それぞれが別を向いてでも一つ屋根の下、ひとつに纏まっている。
冷気に混ざる灯油の匂いと優の肌からする石鹸の香りは、私がワンステップ上がった証に思えた。
迷う必要はない。
優とマリンの元へ帰ろう。
優の一軒家は以前と変わらぬ空間が目立つ家だが、
1つだけ変化を見つけた。
pcの横に卓上カレンダーがあり、細かくマリンの様子や次回の予防接種が書き込まれ、私が居ない間にマリンは去勢していた。
古い家なのに、フローリングは鏡のように襖が写り、優の丁寧な暮らしぶりへ誠実さを感じる。
育ちに驕ることがない優みたいな人こそ、私を永遠に愛してくれそうな予感がした。
2024年4月4日
玄関を開けた瞬間、焦げた匂いが鼻を突く。
台所に駆け込むと煙が立ち込め、アジの開きが真っ黒に焦げていた。
背後から低い声が聞こえてくる。
「おかえり、なっちゃん。」
振り返ると、そこにはエプロン姿の優が申し訳なさそうな顔で立っていた。
あれから2年が経った。
優は工場の派遣社員から、出版社へ派遣先が変わった。翻訳や校正など在宅ワークで、食事の支度をしてくれる。
凝り性なのか、少ない食費で見映えの良いおかずを作って待っている。
そして今日。
私の苗字は「桜井」になり、桜井菜月。
春を彷彿させる名前を少し気に入っている。
結婚の挨拶へ行く前、私は緊張と不安しかなかった。
羽田空港に到着すると出口までがいつもより長く感じ、モノレールから景色が見える頃は、反対される気でいて、「このまま引っ返さない?」喉元まで出るのを抑えていた。
しかし優の実家に到着してみると、温かい笑顔で迎えてくれる人々ばかりだった。
優に瓜二つのお義父さんやシルバーヘアに黒いサテンのワンピースが似合うお義母さんは
「奇特な人がいるとは」「本当に優でいいの?」
優の姉の子たちは家中を走り回り、誰がキュア・ワンダフルかを争っていた。
(上流階級の家らしくない)と思い、
でもみんな優しい、優しい人が多いんだと感じた。
物事が上手くいくとは、パズルのピースが気持ちよく嵌っている手応えと同じ。
生活は平凡な、これといった出来事はなく、
マリンは3歳になる。
私たちは一度、ボロボロになった者同士。
マリンをきっかけに家族になり、こんなこともあるんだなと、少しぐらい運命を信じて良い気がした。
「なっちゃん、風呂が沸いた」
廊下の向こうから優の呼ぶ声がする。
借家の風呂には大きな擦りガラスの窓があり、
車の往来を差し込むライトで知るが、私と優はそんなものは既に慣れてしまって思いつくままに昔流行った歌を口ずさむ。
今の流行りの歌を知らないから、こうして浴槽に並んで昔の歌を合唱する。
「そこ、歌詞が違わない?」「そうだっけ?」
私と優の笑い声が風呂場いっぱいに響いていき、お互いが締まりのない身体を見せ合えるのも幸せなんだろうとほのかに思えたりする。
この2年で心境に変化があり、
以前の私は「あいしてる」
たった5つの文字が言えなかった。
想うことも憚られ、逃げていた。
私の中で「愛してる」は、
相手へ責任が取れるかどうかが、基準で
今、優に愛していると言えるのは
責任だろうが代償を払えると判断した。
私が恋すると好きだけど、愛してるじゃない。
愛していると自己犠牲は厭わないし、
私が手を出して、それで優が安定を取り戻せば、
私の中では自然と帳消しになり、精一杯努めたことも忘れてしまう。
私は共感性が低いと感じることがあり、
恋した経験が少ない。
「好きって、愛してるなんですか?」
聞かなきゃ分からないぐらい、心が乏しい。
愛してるが分かり始めたのは、
私のトリガーを引いて価値のある人、
存在があるだけで価値があるから、愛している。
私の主観で『価値のある人』とは、
自分で価値が決められる人。
ここに善人や悪人は無用かな。
でもいちいち、優に伝えなかった。
「優がピンチだな」
心が泣いていると感じたら、
私の負担にならない程度に手を差し出し、
優に届いたら、礼も要らない。
「なんか善いことをさせてくれた」
自己満足度が非常に高いだけかな。
好きだから、愛してるから、
好きになってくれ、愛してくれはない。
人には自由があって、不完全でポンコツだもん。
優に求めることやものがないわ。
求めることが間違っている気がしてならない。
私が嫌がることをしなきゃ、
ほぼ日常で関心があっても意識しない。
私が嫌がることをするから、意識が取られて邪魔になり、目の前から消えたらいいのにって思う。
基本、自分の幸せは自分ひとりで面倒みて、
他人に自分を認めさせて得られるようなものは要らない。
あやふやな幸せは、求めない方が賢いよ。
そんなヤツに好きも愛してるもない。
「優さん、愛してる」
身体を洗う優に向かって言ってみた。
優はボディソープの泡を集めて
「ふぅ」
私へ吹いて笑っていた。
〜 完 〜