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面白くなくてもいいブルース

「なんか面白い話して」
電話などで突然言われると
「ごめん、話すことがない」断る。

 面白い話、面白くない話、自分の話をする自体があまり好きではない。



 年始は親戚の家に招集された。
しかし挨拶以外ほぼ話をせずに帰り、後から伯母に
「ももちゃんは不貞腐れていた」電話があった。

 うちの母は
「普段から話をする子じゃないですよ」
フォローというより私の実態を告げていた。

 不貞腐れる以前に伯母などが一斉に自分たちの話題をするので、声を出す人の方を見て頷き、圧倒されていた。かなり会ってない親戚の進学状況などわたしに興味がない。他人同然だもん。

 親戚は苗字が違うと、うちの親から見てどの辺りの繋がりで、お墓は知っているが、今はどこに住んでいるのか全然知らない。話の取っ掛かりがないので「はい」しか言えない。

 エアコンの風が直に当たるので、鼻や目が乾いて痛くなる。
「ここに来たらついでだし、福袋があったら見て帰ろうかな」他のことを考えていた。



 仕事などでは会話に苦痛がなく、テンプレ通りと相槌を間違わなければスムーズに会話は運ぶ。
 相手の話を聞いて、疑問を投げて返してもらえれば特に支障なく生活が送れる。

 あまり話さないから、空気が読めないや余計なひと言があるなど失敗は少ない。
 表情さえクルクル変えておけば、その場は切り抜けられる。
 
 でも失敗だってある。
「分かりやすいのに分かりにくい、掴みどころがない」と言われてしまい、どの部分が分かりやすく、どう分かりにくいのか聞いてしまうので
「理屈屋」だと決めつけにあった。

 仕事なんだから、業務連絡などが円滑なら私生活を話さなくてもいいじゃんと思うわたしは掴みどころがないのだろう。



 ひとりは気が楽だ。
オチやボキャブラリーがなくても、共感を考えずにぼんやりと光景を見つめて、面白いなど考えなくて済む。自分だけの面白いに特化できる。

 わたし以外に話が面白くない人はいて、コミュニケーション能力が欠落しているのかなぁと感じる。

 例えば、ただ自分が話したいことを一方的に話し続け、相手が退屈していようが構わず自分の内輪話を延々と続ける人。

 どうしてか、そういう人に限って
「自分は面白い話ができる」と自慢する。
自信の源はどこから湧いてくるんかな。

 いつも同じネタを同じように話すので、どっかの通販CMのように、お決まりの
「でーぶぃでー」「しぃーでぇー」
「社長〜安くしてぇ〜」までのオチが読める話。
相手の興味や関心を意識することはないんだなぁと聞いている。

 内輪話は内輪だけ。世界中が知る話ではないのに、なぜ共通認識だと信じて話を進めるのかわたしには理解し難い。前提条件がとち狂っている。

 それよりも恋愛や家庭事情をあからさまにする心理について行けない。
「旦那が毎日求めてくるのよ〜」
「○○ちゃんママがね」って、リアクションができずに固まってしまう。
旦那さんも○○ちゃんママも顔すら知らない。

 親密な人がいるアピールか、いつの間かわたしも内輪の1人に入っているのか、聞いているこっちは疎外感150%の不快指数なんですけどね。

 それでもわたしには無関係な知らない他人の話を聞いているぐらいがケガしないなぁとか、内輪話しかしない人は境界線がなく、コミニュケーション能力もないでしょ。
そう思うと「わたしの仲間だ」親近感に繋がる。



 わたしが面白い話って何かと問われたら、日常に転がっているありふれた普遍。
普遍って詳細を知らなくても自分の経験則で会話が通じるじゃん。

「今日ね、会社に行く途中さ〜」
漠然としたあらすじでも、自分に働いた経験があれば同じ業界ではなくても『あるある』話は通じる。
「ウケるわ」自然と笑みが溢れる。



 年末はずっと「書くのを辞めたい」が脳内をリフレインして、「書くのを辞めようかと思う」と親しい人に話してみたが、またわたしの卑屈が始まったとばかりに、わたしの言葉が相手の言葉の濁流に飲まれた。

 こういう言動がますます書きたくない病へわたしを追い詰める。
誰もわたしの話なんて聞きたくないよねってイジけてしまう。

 面白い話なんて、所詮自分だけが面白いのよ。
こんなのが咄嗟に出てきて
「やっぱり書こう」
ここはわたしに与えられた場所だもんね。

面白くないを恐れていられるかっての!