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執着を捨て、前向きに生きる
因果応報という言葉が苦手。
完全、完璧な生き方をしているわけではないから、
自分へどんな報いがあるのか分からない。
わたしの良心に従い、刑法や民法や地方自治法などへ違反しないように、誰も見ない居ないと分かっていても真面目に生活しているつもりで、両親を泣かせることは避けたいと生きてきた。
失敗も貧乏くじも引いてきたが、長い目で見ると正解だったと思う。
それでも意識下にないもの、言葉の端々が悪くて人様を傷つけたり、自分の心を守りたくて壁を作ったりした。
知らない間にアリを潰していたかもしれないし、
夏には蚊を叩く。
わたしが生きているだけでわたしを苦手な人は死んで欲しいと願っているだろう。
きっと因果応報が回ってくる、受け止めていこうと覚悟して生活している。
許せない誰かがいて、因果応報が来ればいいと耳にするときがある。
わたしはとても複雑な想いが気持ちを占める。
誰かの不幸を祈るより、自分が幸せになる方法を考えないのかなって。
「アタシをいじめた人が大学へ進学して、優良企業に就職し、順風満帆に結婚や出産をして。
でも、アタシは彼氏すらできずに人生が報われない。あんな人、不幸になればいいのに」と聞く。
「辛い気持ちは分かる。本当に分かる。
でも普通に考えて、いじめられっ子だったあなたは
何の因果応報を受けたの?
いじめっ子が不幸になれば自動的にあなたが幸せになる勝率は上がるのかな」
もちろん言いはしないが、心中で思うことがある。
いつ応報が訪れるか不明なものへ固執して、
自分の寿命が尽きたら、それはいじめっ子のせいではなく、人生を自力で変えようとしなかった自己責任じゃないのかと突き放した考えをしてしまう。
他人の不幸を知ればメンタルは治るの?
因果応報なら、その壊れたメンタルはあなたが悪いことをしたせいなんだよね?
『不幸=悪いことの因果応報』なんでしょう?
いじめられっ子にも原因があると、いじめられっ子だったあなたが認めていませんか?
実際にハンセン病は長い歴史の上で差別され、病人のみならず、親族まで住む場所を追われた。
ハンセン病は別名を「天刑病」「業病」と呼ばれ、天罰や前世の報いの病気と揶揄されてきたが、
あなたはハンセン病の方々を本当に因果応報だと考えるの? 因果関係を証明できるの?
辛い思いをした側に落ち度がないなら、因果応報は成立しないが、不幸になるとは不可抗力や不運などが原因だと考えるのが筋だと思うのですよ。
だとしたら、他人の不幸を祈るより、自分が自分のために生きて行動しませんか。
成功体験が逞しい自分へ変えますよ。
漫画家・手塚治虫は執念の使い道を自分へ絞ったとの逸話で勇気の一歩にならないかな。
法律に引っかからない善と悪は誰が決めるの?
あなたにとって、いじめっ子は人生イージーモードに見えても、いじめっ子本人は苦難を歩んでいるかもしれない。
自分にとっての善は他人の悪かもしれない。
良かれと思ったことが裏目に出るなど、善悪は自己都合の良し悪しじゃん。
これを前提にしたら、因果応報はないのではないか。
お釈迦様の言葉を借りれば「執着を捨てる」
不慮の悲しみをいつまでも持たず、前向きに自分の道を切り開かないと、自己憐憫が自分を不幸にしているんじゃないかとさえ思ってしまう。
自己憐憫に浸るのは、現実を受け入れられず、自分を幸せにしない非を認めることができなくて、
恐らく全てを「相手が悪い」と捉えることで自尊心を守っているのかもしれないね。