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人と人が生み出したものは〜「つかこうへい正伝II〜1982-1987 知られざる日々」

9月の日本経済新聞「私の履歴書」は、演出家の鈴木忠志だった。

早稲田小劇場を主催、寺山修司の「天井桟敷」、唐十朗の「状況劇場」、佐藤信らの黒テントと共に、新しい演劇ムーブメントを牽引した。当時、私は大阪の高校生で、そうしたものが見られる東京人をうらやましく思っていた。

私が大学入学で上京した1980年、鈴木忠志は富山に移り、今に至るまで彼の芝居を観ることはない。寺山修司も唐十朗も、なんとなく敷居が高く感じられた。そんな18歳の目の前に躍り出たのが、つかこうへいだった。「私の履歴書」を読みながら、例によって積読状態だった本を思い出した、今年の初めに出版された、長谷川康夫の「つかこうへい正伝II〜1982-1987 知られざる日々」(大和書房)である。

2015年に上梓された「つかこうへい正伝 1968ー1982」(新潮文庫〜講談社ノンフィクション賞など受賞)の続編にあたるもので、著者の長谷川康夫は劇団つかこうへい事務所に所属、私も舞台上の姿を何度も見ている。役者としてのみならず、つかの執筆活動を支えた一人であったことを本書で知った。

「つかこうへい正伝II」の“あとがき(らしきもの)“で、長谷川は前作において、<「正伝」などという代物ではなく、わけのわからぬ長谷川なる男の『青春記』じゃないか>といった非難を浴びたと書いている。

前作については、評伝という色彩も強く、その中で長谷川始め、風間杜夫・平田満らのつか芝居の常連との関わり合いが書かれていた。それが私の印象だ。

しかし本作は、確かに長谷川康夫の『青春記』の色彩は強い。しかし、それが良い。“つかこうへい“という存在がなんだったのか、それを解き明かしてくれている。

副題に“知られざる日々“とある。私がつか芝居に夢中になったのは、1980年からだが、1982年に劇団は解散してしまう。私は“つか離れ“を余儀なくされ、社会人となり、新しい生活が始まった。この「正伝II」の1982ー1987年は、そうした時代、まさしく私の知らないつかこうへいである。長谷川の文章は、その時代を生き生きと描写してくれる。

中でも、大竹しのぶを起用した、NHKドラマ「かけおち‘83」のくだり。つかこうへいは、セリフを脚本化せず、“口立て“という手法で、役者に伝えることで有名である。初めてつかと仕事をする25歳の大竹に、共演した長谷川は<度肝を抜かれた>。そして、<つかの顔が輝くのがわかった>。このドラマ、観たい!

さらに、つかの“祖国“韓国での「熱海殺人事件」上演。つかが芝居作りにのめり込み、その結果として、韓国の観客の熱狂・感動が伝わってくる。そのきっかけは、<母親のソウル転居だったのではないだろうか>と書かれているが、韓国で長谷川はつかの母のこういう言葉を聞く。<「アイ子はねぇ・・・あれは私なんだよねぇ・・・」>。アイ子とは、劇中で殺される女工である。

つかこうへいという存在を核にした、人と人の“縁“の物語、それは様々な世界を創り出している。

本作が1987年で終わっているのは、長谷川康夫が“つかこうへい“からの、<「出発」のとき>を迎えたからだが、1990年代に入りつかこうへいは本格的に復活。富田靖子が主演した、「飛龍伝 ‘90」から、私も時折舞台を見るようになる。

もちろん楽しんだ。しかし、それはかつて紀伊國屋ホールで、時には通路に座って観ていた高揚感とは異なるものだった。あれは一体なんだったのか、私にとって“つかこうへい“がなぜ輝いていたのか、長谷川は本書を通じてその答えを提示してくれている



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