井上尚弥の何が凄いのか〜森合正範著「怪物に出会った日」
今年の5月に初めてボクシングを生で観た。井上尚弥vsネリ、会場は東京ドーム。そのことは記事にもしたが、もちろん“怪物“の強さに感動した。
あれから約2ヶ月が経ち、森合昌範が上梓した「怪物に出会った日〜井上尚弥と闘うこと」(2023年10月講談社)を読んだ。素晴らしいスポーツ・ライティングだ!
この本を読んで、改めて井上尚弥の凄さが分かった。それは、彼のボクシング技術・メンタル面の強さのみならず、その存在がいかに他者に刺激を与えているかという点も含んでいる。
本書の中に、オマール・ナルバエスが登場する。ナルバエスは、フライ級・スーパーフライ級で世界チャンピオンになり、両階級合計で27回防衛したアルゼンチンの英雄で、井上戦までダウンを喫したことがなかった。2014年12月、井上はそのナルバエスと対戦しノックアウト勝ち、2階級制覇スーパーフライ級の世界王者となる。
ナルバエスは、こう語る「残念なのは、メディアは井上がリング上で繰り広げていることを、いとも簡単にやっているように扱ってしまっていることだ。決して簡単ではないということを分かって欲しいんだ」。
スポーツ・ライターの森合正範は本書のプロローグで、井上の強さについて“薄っぺらい“説明しかできていない自分を評し、<井上という稀有なボクサーを伝えたい。その思いとは裏腹に私自身、何が凄いのか、本当は分かっていない。そのことにはっきりと気づいた>(「怪物に出会った日」より、以下同)
森合が分かっていないのであれば、私などが理解できているはずはない。本書は、井上尚弥がなぜ“怪物“なのか、それを解き明かす“旅“である。
「現代ビジネス」編集長の阪上氏が、井上の強さを伝えくれていないと悩む森合にこう言う。<「だったら、対戦した選手を取材していったらどうですか。怪物と闘った相手に話を聞けば、その凄さが分かるんじゃないでしょうか」>
こうして、森合は敗者へのインタビューを開始する、それは日本のみならず、アルゼンチンやメキシコへの旅となる。
本書を読みながら、井上尚弥の凄さを改めて感じる。私の中に残る井上の試練はドネア戦での死闘だけだったが、彼は多くの障害をその才能と頭脳で乗り越えてきた。一連の勝利は、ナルバエスが言う通り、決して“簡単“なものではなかったのだ。
本書はネリ戦の前に書かれたので、東京ドームの試合には触れられていないので、そこから一例を挙げよう。初回、ネリのパンチに井上は思いがけないダウンを喫する。場内は騒然とするのだが、その中で井上は冷静さを保ち、8カウントまでしっかり休んで立ち上がる。ダウンした場合のイメージ・トレーニングができていたのだ。
こうしたエピソードが、本書にはふんだんに登場する。そして、井上の“凄さ“は対戦相手にも伝わり、様々な形で彼らの人生に影響を及ぼしている。敗者も、超一流のボクサーであり、本書は彼らの物語でもある。
本書を読みながら、YouTubeでインタビューを受けた敗者と井上の戦いをYouTubeで探して視聴した。これも楽しい追体験であった。中でも、ナルバエスの章を読んだ後に観た対戦試合は感動を覚えた。試合はもちろんのこと、父が敗れ号泣するナルバエスの息子の姿である。
井上は、敗者そしてその次の世代にもインパクトを与えている