立川談春・柳家三三が起こす化学反応(その1)〜「俺たちの圓朝を聴け!」第一部
今年は、三遊亭圓朝の「牡丹灯籠」の年になっている。立川志の輔が「牡丹灯籠final」、志の輔に刺激されて、圓朝の速記本を読み返し、そして立川談春と柳家三三がリレーで演じる「牡丹灯籠 俺たちの圓朝を聴け!」。三部構成の第一部初日、9月2日有楽町朝日ホールの高座を観た。
“ごあいさつ“という名の雑談の後は、三三の落語、談春「牡丹灯籠」、中入りを挟んで三三「牡丹灯籠の続き」、談春の落語という構成である。
「牡丹灯籠」を二人がどうやるかが、本会の中心なのだが、前後の落語も楽しみだった。東京かわら版8月号のインタビューによると、先立って行われた福岡公演の経験を踏まえ、軽いネタを演りそうだったのだ。
三三は「宮戸川」を演じた。帰宅が遅くなり、締め出しをくったお花と半七。一夜を過ごそうと、おじさんの家に向かう半七だが、お花がついて来る。二人を迎えたおじさんとおばさん、おじさんの趣味は縁結び。「万事心得た」と、有無を言わせず、二人を二階に上げる。思わぬ展開で、一つ布団で寝ることになった、お花と半七は。。。。。この後の、「牡丹灯籠」のB面のようにも聴こえる、この噺を三三が見事に演じた。
続いて登場した立川談春。今回の公演は、三遊亭圓生らが演じた、“昭和の「牡丹灯籠」“の部分である。最初は、「お露新三郎」。“カランコロン“という駒下駄の音が有名な「牡丹灯籠」の最も有名なパートである。
美男の浪人、萩原新三郎が、旗本の娘お露と出会い、あっという間に惹かれ合う仲になる。 たった一日のことである。再会する機会がなかなか訪れず、お露は“恋わずらい“の後、他界する。
したがって、二人の出会いが、両者の運命的な場面として描写されなければ、この話の説得力が出現しない。“恋わずらい“にリアリティを持たせる演出が重要である。談春は、この場面を艶っぽく演じた。
会場で販売されている小本「俺たちの圓朝を聴け!」を読むと、談春が落語の将来について危機感を抱いていることが分かる。同書で、<近年、日本人に対する不信感がものすごく出てきたんです>、<このままじゃあと三十年経ったら落語ってなくなっちゃうんじゃないの>と話している。そして、同様の思いをしていたのが、明治維新を体験しながら、落語を作り演じた三遊亭圓朝ではないかと。
そう考えると、「牡丹灯籠」の本筋が仇討ちであることがよく理解できる。圓朝は仇討ち物語を語り、江戸の価値観を繋いで行こうとしつつ、昭和の時代にも通用する脇筋“怪談 牡丹灯籠“をカップリングしたのだと。
お露を想う新三郎は、二人が出会うきっかけを作った山本志丈からお露の死を告げられる。前述の本の中で、談春はこの志丈というインチキ医者について、<人間的に俺に一番近い>と語っている。
牡丹の灯籠を持つお米の先導で、お露の幽霊は新三郎のもとに通ってくる。そして隣人の白翁堂勇斎が新三郎に「あれはこの世のものではない」と忠告する場面へと、談春は快調に演じる。そして、新三郎は、勇斎の忠告を確かめるべく、お露とお米が住むという三崎村(さんさきむら)を訪れる。
ここで、談春のパートは終わり、後半の三三へと引き継がれるはずだが、話に入り込んでいたのか、三三が語る部分まで話してしまう。こうしたハプニングも、ライブの魅力である。
後半は、明日書くが、三三の「牡丹灯籠」の後、談春が演じたのが「粗忽の使者」。赤井御門守(あかいごもんのかみ)の家来、物忘れの激しい地武太次部右衛門(じぶたじぶえもん)が繰り広げる、実に馬鹿馬鹿しいドタバタ劇。こういう落語らしい演目を演じる談春、私は大好物である。あらためて、彼のルーツの一部は、大師匠の先代柳家小さんにあることを再認識するのだった
(続く)