配本部隊に支えられた出版社〜目黒考二著「本の雑誌風雲録」
目黒考二/北上次郎さんがお亡くなりになり、そのことについて少し書いた。何か著書を読もうと思い、ピックアップしたのが「本の雑誌風雲録」である。
椎名誠と目黒考二が中心となってスタートした「本の雑誌」。それは、目黒考二/北上次郎の誕生でもある。なにせ、<毎日会社に行くと本が読む時間がなくなるから>と言って、新卒で入社した会社を3日でやめた目黒さんが、本格的に社会に対するアウトプットを始めるきっかけだからだ。
1976年の春、<創刊号の印刷部数は500部である。そのうち100部は仲間うちに配ってしまったので書店売りは400部だ>。出したはよいがどうやって売るのか。目黒さんは、書店に置いてもらうよう営業を実施した。
本や雑誌が書店の店頭に並ぶには、通常「取次」という問屋が介される。日販とかトーハンといった会社がそれにあたる。出版社は取次に書籍・雑誌を納品し、取次は書店の希望数を参考に配本する。一般的には、書店は売れた分について取次を通じて代金を出版社に支払う。売れ残り、店頭から除くものは、取次を通じて返本されお金は支払われることはない。
「本の雑誌」は、こうした出版界のメカニズムについてよく知らない状態でスタート、自ら書店を回り注文を取り、出来上がった雑誌を、これまた自分たちで配本するという、とんでもないことを始めたのだ。
創刊号をカバンに詰め、目黒考二は神田の書店街を歩いて回り、<行く先々で断られた>。それでも、「本の雑誌」は少しずつ読者を獲得し、季刊から隔月刊へとなる。当時、私の目のまわりにある書評は、新聞くらいだった。そこには、私には無縁の本の紹介が並べられているだけだった。
いつ頃からか、大阪の書店でも見かけるようになった「本の雑誌」には、自分が面白いと思える本の情報が掲載されていた。そうした人は他にも沢山いたのだろう。潜在的なニーズに寄り添うような小雑誌の発行部数は、徐々にだが増える。
それに従い、配本を行う人が必要になる。完全なる人海戦術である。ボランティアに限りなく近い大学生たちが配本部隊に志願して集まる。そして、人が集まるところには、ドラマがあり、青春があり、人生のためのレッスンがある。
本書のオリジナルは1985年に書き下ろされ本の雑誌社から出版されたもので、“文庫版あとがき“には、発売日が決まっていたので、<あわてて書き上げた記憶がある>、<いま読むとおかしな文章が多く>と書かれている。読み始めて最初に感じたのは、あの北上次郎名義の書評と比べると、文章が荒いこと。しかし、それが本書に書かれている時代〜それは私の大学生時代とも重なるのだが〜をよく表しているようにも思う。
同あとがきによると、「本の雑誌」は本書の3年後、1988年に月刊誌となる。1991年には直販は限界に達し、取次に入ることになる。そして、本書の主役である配本部隊はなくなった。偶然にも、私と「本の雑誌」の付き合いは、その頃から希薄になっていったように思う。
いまや、Web本の雑誌というサイトが運営されている。当然であるが、全てはあの80年代から始まった。
目黒さんの訃報について若干のコメントが掲載され、北上次郎名義の“新刊めったくたガイド“が存在しない「本の雑誌」3月号、私は久方ぶりに書店で購入した