わからないのです。
こんにちは。
暑いですね。
本棚を整理しています。
前回からだいぶ時間が経ってしまいました。
不精なのです。
ちょっとお休みのつもりでnoteに来ました。
というのも、お伝えしたいことがあるのです。
(本当にどうでもいいんですが、いま「ちょっとお休み」と書いたとき、
脳内に『ちょっとストップ、ミニストップ』がしばらく流れました。アイス食べたい。)
もうすでに本棚を、正確に言うと個別の本のページを
読んでくれた方は違いに気づいたかもしれませんが、
今まで個別の本のページにあった、本を紹介する、表す文章がまだ書けていません。
入力をわすれてしまったとかそういうことではなく、
この書けていないことが今回お伝えしたいことです。
というのも、とある本を読んでしまって(その本を今回並べているから気になったら探して欲しいのですが)、その内容を受けて、本というものの一部を切り取って文章を書くという行為が意味することがわからなくなってしまっているのです。
そのことを考えていて、本棚を整理するのが滞っていました。
ただその間にも、ここで堰き止めちゃいけないと思わされるような
力のある本にも出会いました。
ただそれを、どれくらいの主観を交えて届ければいいのかに迷っています。
書かれていることは、それを受け取る人によって意味が異なるのが当然で、
僕とあなたが同じ文章を読んだからといって、気持ちの動き方まで同じかどうかというと、そんなことは決してないはずです。
それなのに、書かれている内容を、自分の主観と限られた言葉で切り取って発信することは、作品を矮小化することにはならないだろうか。
個人の発信ならまだしも、小さくとも本屋を名乗る場所として
作品を貶めることになっていないだろうか。
ただ、意図をもって本を並べるだけでいいのではないだろうか。
喋りすぎてはいないだろうか。
その本を読んでからそんなことを考えるようになっています。
なので、もしかしたら今後本を紹介する文章は書けないかもしれません。
万が一、楽しみにしてくださいってる人がいたらごめんなさい。
ただ、そういった疑問とか恐れみたいなものを携えて書くことが必要な気もしていて、まだそうなるのかわからないと言うのが正直なところです。
少し話は変わりますが、さきほど書いた、恐れとか疑問をもったときの立ち止まりと、それを乗り越えるのではなくて、携えて、わからなさを常に感じながら「それでも」と言い続けるということ。
そんな態度がいろんなことに必要なんじゃないかなと、最近考えています。
例えば、自分が考えは間違っていないと確信しながら書かれたものと、
もしかしたら間違っているかもしれないという、恐れとかわからなさを引き連れたまま、それでも書かれた文章。
この2つが例え同じ結論に辿り着いたとしても、ありきたりな言葉で言えば、深さ、みたいなものが違ってくるのではないのだろうか。
そんなことを考えていたら、もしかしたら同じことは人間関係でも言えるのかもしれないと思うことがありました。
ある友人と話していたときのことです。
その友人は、相手を知りたい、理解したいと言う気持ちと、絶対にそれは叶わないことの間にいると言いました。
スプートニクの恋人に「理解は誤解の総体である」という言葉があります。
僕もそうだと思います。
人の考えていることが100%わかるなんてことはありえない。
仮にわかったら狂ってしまうでしょう。
ただ、誤解しかできないとそこで立ち止まるのではなく、
それでもわかろう、わかりたいと思うことで、
より理解に近似した場所に辿り着けるのではないでしょうか。
この話に当てはめると、書くことにおいて自分はまだ「それでも」
を言い続ける覚悟ができていないのかもしれないとも思っています。
ほんや徒歩5分は良くも悪くも、途上の本屋さんです。
こんなことは始める前に決めておくべき覚悟だったのかもしれません。
気づくのが遅くなってしまいました。
でも、立ち止まったことを受け止めて、
歩き出す準備を怠らないようにします。
もしかしたら、変化があるかもしれないので、
お時間あるとき、また覗いてみてくれると大変嬉しいです。
またなにかあったらご連絡するかもしれません。
では。
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