『渋江抽斎』 – 日めくり文庫本【11月】
【11月8日】
その六
外崎さんの答は極めて明快であった。「抽斎というのは『経籍訪古志』を書いた渋江道純の号ですよ。」
わたくしは釈然とした。
抽斎渋江道純は経史子集や医籍を渉猟して考証の書を著したばかりでなく、「古武鑑」や古江戸図をも蒐集して、その考証の迹を手記して置いたのである。上野の図書館にある『江戸鑑図目録』は即ち「古武鑑」古江戸図の訪古志である。惟経史子集は世の重要視する所であるから、『経籍訪古志』は一の徐承祖を得て公刊せられ、「古武鑑」や古江戸図は、わたくしどもの如き微力な好事家が偶一顧するに過ぎないから、その目録は僅に存して人が識らずにいるのである。わたくしどもはそれが帝国図書館の保護を受けているのを、せめてもの僥倖としなくてはならない。
わたくしはまたこういう事を思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が頗るわたくしと相似ている。ただその相殊なる所は、古今時を異にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きい差別がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁なるヂレッタンチスムの境界を脱することが出来ない。わたくしは抽斎に視て忸怩たらざることを得ない。
抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしの比ではなかった。迥にわたくしに優った済勝の具を有していた。抽斎はわたくしのためには畏敬すべき人である。
然るに奇とすべきは、その人が康衢通逵をばかり歩いていずに、往々径に由って行くことをもしたという事である。抽斎は宋槧の経子を討めたばかりでなく、古い「武鑑」や江戸図をも翫んだ。もし抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、二人の袖は横町の溝板の上で摩れ合ったはずである。ここにこの人とわたくしとの間に暱みが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。
——森鴎外『渋江抽斎』(岩波文庫,1999年改版)23 – 24ページ
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