『南方民俗学』 – 日めくり文庫本【12月】
【12月1日】
南方熊楠は、こういう一九世紀西欧の人類学の世界と出会い、まず驚嘆し、熱狂し、つぎにすぐするどい批判者となっていったのだ。熊楠は、たしかに人類学にひかれた。しかし、未開文化の意味については、ヴィクトリア朝人類学とは、あきらかに異なる考えをいだいていた。彼は西欧の「現代」に実現されているものが、なんでも偉いなどとは、まちがっても考えない人だった。ましてや、近代人の知性とか感覚を基準にして、人類史を進化論的に整理しようという考えほど、ばかげたものはないとも、思っていた。
未開文化にたいする彼の考えは、どちらかというと、シュールレアリズムの影響を受けて、自分たちの研究の内奥でうずいていた素直さやリリシズムを再発見し、人類学を通じてまず自分の感受性を変えようと努力した、二十世紀のフランス人類学の考えと、よく似たところをもっている。自分がなぜ、こんな奇妙な未開の習俗うや神話に熱狂するのか。そこには、深い内奥の衝動が隠されているはずだ。それを合理主義の犠牲にすることによって抑圧し、りっぱな理論をつくりあげたあげくに、自分の仕事に懐疑をいだくようになるなんて、もってのほかの近代的病理ではないか。彼らは他者を自分の外に発見しようとして、欺瞞に陥ってしまったのだ。他者は内部にある。他者は自分自身ではないか。未開人は、まさに内奥の自分なのだ。
熊楠は同時代の人類学にたいして、あきらかにアンビヴァレントな態度を示している。民族誌に書いてあることは、読めば読むほどにおもしろい。古代人が書き残したものも、人間はかくも不思議な生き物だ、という感動をあらたにする。自分の内奥の未開人が、率直にそれを喜んでいるのだ。しかし、そうした情報を体系づけてみずから「科学」であると称しているものに対して、熊楠はいつもどこか欺瞞的なところがある、と感じつづけていたのだ。だいいち、彼は進化論の仮説を認めることができなかった。生物種についてのダーヴィンやウォーレスの考えは、大筋で正しい。しかし、それを文明や文化にたいして、そのままあてはめることは完全に間違っている、と彼は考えた。
中沢新一「解題 南方民俗学」より
——南方熊楠、中沢新一 編『南方民俗学』(河出文庫,2015年新装版)17 – 18ページ
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