
『ことばの歳時記』 – 日めくり文庫本【10月】
【10月13日】
物のあはれ
秋というと、平安王朝の貴紳、淑女たちは、「物のあはれ」を身にしみて感じる季節だと決めていた。「物のあはれ」をどのように深く感じるかということが、彼等の資格ともされたのだから、彼等は争って秋の哀感や寂寥感を歌に歌いあげようとした。
その名残は俳句の季節にも残っていて、感傷的とも言えるような主観的な季節が目につくのである。
その一つは「身に入む」という季節である。身内に深く感ずるということだから、言葉自身に季感はないはずだが、藤原俊成の、「夕されば野べの秋風身にしみて」の歌が、もてはやされるようになって、秋の哀れを身内に深く感じ染ませるという情緒的なニュアンスが、言葉につきまとうようになって、連俳では秋の季節とされたのである。
身にしむや亡妻の櫛を閨に踏む 与謝 蕪村
などというのは、なにかゾッとするような感じがある。
「冷じ」などという季節も、現代人の感覚では、なぜ秋なのか不思議に思う人もあるだろう。枕草子に「すさまじきもの、昼映ゆる犬。春の網代。三四月の紅梅の衣。火おこさぬ炭櫃。」などと言っているのが、この言葉の感じをよく示している。時期はずれ、場ちがい、その他、調和を欠いたものの呼びおこす違和感である。秋が深まって、冷気が肌に快い階段を通り越して、うそ寒さを感じさせるころを季節に当てているのである。
冷まじと髪ふりみだしゆうかり樹 富安 風生
——山本健吉『ことばの歳時記』(角川文庫,2016年)232 – 233ページ