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『不時着する流星たち』 – 日めくり文庫本【9月】

【9月25日】

 あっという間に祖父は、かつて目に見えていた風景を少数に置き換えて自分のものにした。歩数をかぞえながら移動し、髭を剃ったりクッキーをつまみ食いしたりしている姿を見ていると、水晶体や網膜の果たしていた役割が、歩行と数字に入れ替わっただけではないか、という気がした。特に夕食のあと、僕が本を読んでいるそばで、定位置のソファーに座り、黙って煙草を吸っている様子など見ていると、盲目なのを忘れる瞬間さえあった。
 そういう時、祖父は口笛虫の音楽に聴き入っているのだと僕は知っていた。その虫が祖父の脳みそに住み着いたのは、目が見えなくなるずっと以前、祖母が死んでまだ間がない頃だった。
「口笛のとっても上手は虫だ」
 祖父は心の底から感心していた。
「どんな形?」
 まだ子どもだった僕は、それがオオクワガタのように恰好かっこういい昆虫だったらいいのに、と思っていた。
 しかし祖父の説明によれば、ぱっとしない容姿の持ち主であるのは間違いなさそうだった。ぷっくりと膨らんだ蛇腹状の胴体。毛羽立ってべたべたした脚。長すぎる触角。薄っぺらなはね。とにかくそれが脳みその奥深くにまで迷い込み、とうとう出られなくなったのだ。
「どこから入ったの? 耳から?」
「いや、いや」
 祖父は耳の裏側にほんのわずか残る髪をかき分け、焦げ茶色のいぼを見せた。
「ここが入口だ。普段はこれで蓋をしている」
 祖父は疣を人差し指の腹で優しく叩いた。それは左耳たぶの陰に上手い具合に隠れていた。
 表面はごつごつとし、産毛に周辺を取り囲まれ、隙間なく皮膚に食い込んでいた。
「開けて見せて」
 すかさず僕はせがんだが、祖父はすまなそうに首を振った。
「せっかくの口笛虫が、逃げてしまったらどうする? 見かけによらず、すばしこいのだ。用心するに越したことはない」
 死んだ祖母と入れ替わるようにしてやって来た虫だから、たぶん逃したくないのだろうと納得し、僕は潔く引き下がった。
 口笛虫は、口がどこにあるのかさえよく分からないほどなのに、自在に口笛に操り、見事な音楽を奏でる。その小さな体で、どんなに一流の演奏家にもオーケストラにも出せない豊かな音を、脳みそ一杯に響かせる。口笛虫というのは便宜上の呼び名で、本当はもっと複雑な仕組みで音を出しているのかもしれないが、たとえるべき楽器が一つとして思い浮かばない。
「何ていう曲?」

「第五話 測量」より 

——小川洋子『不時着する流星たち』(角川文庫,2019年)116 – 118ページ


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