
『ブーレーズ作曲家論選』 – 日めくり文庫本【9月】
【9月5日】
多くの人にとって、僕もそのひとりだけれど、貴君は、とても早くから、破壊——それもまさに「アメリカ的」破壊——の体現者でした。それは戦争直後のこと。情報伝達が散発的だっただけに、一層話は謎めいていました。かろうじて分かっていたのは、あちらでは誰かがピアノを「プリペア(予め変造)」しているということでした。それはまだおとなしい、破壊の始まりだったわけです。その後どんなことが生じるかが分かっていたならね!
ひとりの手品師が、遠い水平線の彼方からやって来て、僕たちのカテゴリーの空虚さを指し示す必要がまさにあったんです。〈君たちは、君たちの伝統の堅固さを信じているのかい? 君たちの技法の効力を信用しているのかい? 君たちの教養や理論に磨きをかけるってわけか? 君たちには気の毒だね。そんなもの僕の笑いで全ては帳消しさ。そして僕がやり直すんだ。〉
〈僕がやり直す〉だって? 僕たちはやり直していますよ! そうした論証——たとえ背理法による論証だとしても——を突きつけられてしまうと、日常の仕事を以前通りに続けられはしません。僕たちは、文字通りばらばらにされ、好むと好まざるとにかかわらず閉じ籠もり閉じ込められてきた隊列の外へ追いやられたんです。
洗礼者ジョン〔=ヨハネ〕、貴君は自ら進んで砂漠に赴き、他の人々がほうっておいたり、軽蔑したりしていたバッタたちを糧にしました。その意味で、貴君はプロの音楽料理人の恥の種であると同時に悔悟の種だったと言えるでしょう。
僕たちは皆、何らかの時に、貴君を必要としました。もし貴君がいなかったら、貴君を創り出す必要があったでしょう。けれども、貴君には自分で自分を創り出す天賦の才があったし、そればかりか貴君には別の才能があるんです。つまり、貴君には、自分を創り出した途端に、身を隠してしまう才能があります——だから、貴君に追いつこうとする者にとって、追いつくのは実に困難な仕事になってしまうわけです。貴君はここにいるなと思うと、もうどこか別のところに行ってしまっている! それは、少なくとも僕にとっては、貴君の魅力の大部分を占めているのですが。つまり貴君は捉え難い存在です。どうかいつまでも捉え難い存在であって欲しいものです。それこそが僕たちの必要としているものなのです。物事は僕たちがそうであるはずだと思っているようには実際存在していないという神秘こそが必要なんです。
「ジョン・ケージに宛てたピエール・ブーレーズの手紙〔一九八二年九月二十三日〕」より
——ピエール・ブーレーズ『ブーレーズ作曲家論選』(ちくま学術文庫, 2010年)336 – 338ページ