『トゥルー・ストーリーズ』 – 日めくり文庫本【9月】
【9月11日】
覚え書き 二〇〇一年九月十一日、午後四時
十四歳になるわが家の娘は、今日からハイスクールに通いはじめた。生まれてはじめて、一人でブルックリンからマンハッタンへの地下鉄に乗った。
今晩、娘は帰ってこない。ニューヨークではもう地下鉄が走っていないので、アッパー・ウェストサイドに住んでいる友人のところに泊めてもらうよう、妻と私とで手配したのだ。
娘が世界貿易センターの下を通過して一時間と経たないうちに、ツインタワーが崩れ落ちた。
わが家の最上階から、都市の空を煙が満たしているのが見える。今日の風はこちらブルックリンの方に吹いていて、火事の臭いが家中の部屋に入り込んでしまった。何ともひどい、鼻を刺すような臭気だ——燃え立つプラスチック、電線、建築材。
妻の妹はトライベカに住んでいる。かつて世界貿易センターだったところから、北へほんの十ブロックくらい行ったあたりだ。その義妹が電話してきて、最初のタワーが崩壊したときに聞こえた悲鳴のことを話してくれた。彼女の友人の、惨事の現場にもっと近いジョン・ストリートに住んでいる人たちは、住んでいるビルの玄関ドアが衝撃で吹き飛ばされ、警察に誘導されて避難した。瓦礫の山の中を、彼らは北へ歩いていった。瓦礫には人間の手や足が混じっていた、と彼らは妻の妹に話した。
午前中ずっとテレビニュースを観たあと、私と妻は近所を歩いてみた。顔にハンカチを巻いている人が大勢いた。塗料作業用のマスクをつけている人もいた。私たちは立ちどまっって、日ごろ私の髪を切ってくれている男と話した。誰もいない床屋の前で、彼は苦悶の表情を浮かべて立っていた。彼が言うには、何時間か前、隣の骨董品店を経営している女性が、世界貿易センターの一〇七階にあるオフィスに閉じ込められた義理の息子と電話したそうだ。電話があってから一時間と経たないうちに、タワーは崩壊した。
一日中、テレビで恐ろしい映像を眺め、窓の外の煙を見ながら、私はずっと友人の綱渡り芸人フィリップ・プティのことを考えていた。一九七四年、世界貿易センターの完成直後に、フィリップはタワーからタワーを歩いて渡ってみせた。地上から一マイル以上離れた綱の上で踊っている一人の小柄な男。それは忘れがたい美しさをたたえた行為だった。
今日、その同じ地点が、死の場所に変えられてしまった。何人が死んだのか、考えただけでもぞっとする。
「折々の文章」より
——ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』(新潮文庫,2008年)321 – 322ページ
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