『ことばの歳時記』 – 日めくり文庫本【1月】
【1月12日】
池田弥三郎氏と『万葉百歌』と言う書物を作ったとき、氏が万葉集の雪の歌は、本当はみな春の歌ではないか、と言ったことがある。そう律してしまえるかどうか分からないが、そう解釈した方がよい歌も、かなりあるようだ。新野の雪祭を見ても分かるように、それは正月の行事であり、雪をその年の豊年の予兆と見立てたものだからである。
巻向の檜原もいまだ雲ゐねば子松が末ゆ沫雪流る (柿本人麻呂歌集)
この歌など、檜原社の神事の匂いが、どこかただよっている。するとこれは、やはり早春のことほぎの歌かも知れない。子松の枝に流れる一握りの沫雪が、豊年の「ほ」(神意を象徴して現れるしるし)なのかも知れない。
そういう信仰が古くからあって、日本人の雪をよろこび、「雪見」などと言って、それを鑑賞する態度が導き出されてくるのだ。
雪は今でも、私たちを童心にかえらせる何物かがある。雪は思郷、回想をさそう種である。
「雪」より
——山本健吉『ことばの歳時記』(角川文庫,2016年)284 – 285ページ
移り変わりに敏感だからこそ、待ちわびる気持ちも昂るというもの。
日本人は、「いま見えているもの」と「また見えるもの」を重ねて見ているのかもしれません。
/三郎左