ヴェトナム今昔〜マイケル・チミノ監督『ディア・ハンター』(1978)視聴小史
2021年5月9日、日曜日の朝。パラパラと本をめくっていたら、ページの間から、色あせた映画の半券がハラリと床に舞い落ちた。
『ディア・ハンター 4K デジタル 修復版』のチケットである。日付は、12月22日(土)。確か、2018年の年末に鑑賞したときのものである。UPLINK吉祥寺に、開館直後出かけたことを思い出す。コロナ禍前、映画館が新規オープンしていたのか。一瞬、感慨に耽る。
ヴェトナム戦争を題材にしたこの映画、あまりにも有名だから、ストーリーについては、多くの人が知るところかと思う。
まずは、本作品が「好き」か「嫌い」か、について。
大学生時代の1979年、ロードショーを見て以来、レンタルビデオ、レーザーディスク、DVD、リバイバル上映、テレビ放映などで、約40年に渡り、繰り返し見てきた作品である。
何回も見てきたのだから、「嫌い」と答えるのは難しい。しかし、「好き」と答えることには、少し抵抗感を覚える。
ひとことで言えば、そんな映画である。
たまたま、テレビ放映を録画していたので、自宅でスクリーンに拡大して、改めて視聴に挑戦。色彩が自然で、音もまあまあ。かつて楽しんだレーザーディスクやDVDの映像も荒削りで悪くなかったが、ハイビジョンがベターと感じる。
内容はというと、やはりテンションが凄い。特に、1回目のロシアン・ルーレットのシーン。賭場を仕切る北ベトナム側の男の目つきが、何度見ても恐ろしい。2018年に劇場で見たときは、緊張感にエアコンの冷気が加わったせいで、恥ずかしながら4回も手洗いに立ってしまった。
緊張感と言えば、クリストファー・ウォーケンの、落ち着きのない所作、不安そうな眼差し、次から次へと切りかわる表情が、作品を一層タイトなものにしている。
ところで、どうして監督がこの残酷ゲームを取り上げたのかが、未だによく分からない。評論家をはじめ、いろいろな方々の論評や感想が想像できるのだが、今回注意深く見ても、やっぱり不消化感が残る。
また、なぜ「鹿狩り」なのかも、依然として不明。
1979年の日本公開時、著名な新聞記者の本田勝一氏が、この作品に対して厳しい批判を浴びせていたことを覚えている。詳細は省くが、今となれば、ちょっと考え過ぎの感もある。しかし、制作年が1978年という対米戦争終結後3年しか経っていないデリケートな時期であることを考慮すると、曖昧な解釈を許す作品に対して、ネガティブな意見が現れるのも仕方ないというところか。
ただ、当時の評価が、朝日新聞のスター記者の意見に相当影響を受けたことは否定できない。当方もそのひとりであった。
40年の月日が経過した。今日、この作品は素直に見るべきものと感じている。白紙で視聴に臨むと、反戦というより厭戦気分が高まってくる。暴論になるかもしれぬが、「鹿狩り」や残酷賭博は、監督の思いつき、戦争から逃避したい気持ちを生理的に強めるための仕掛けではなかったか。深読みは必要ないのではないか。
話は変わるが、当方、近年になってヴェトナムを2回、訪れている。1回目は、2012年12月。2回目は、2019年3月である。
約8年前の1回目は、ハノイを中心に北部を。ヴェトナム人の友人宅やハロン湾などの定番観光地を訪問した。小学生の娘を連れて行った。宿泊はハノイ旧市街。ホテル最上階からは、亜熱帯のコロニアルな街並みが見渡せた。ヴェトナムの食や飲料を珍しく感じた。
2回目も同じ娘を同伴。2年前と割と最近のことである。娘は、大学生になっていた。訪問地は、ダナンを起点に、フエ、ホイアンと中部の都市。きらびやかなリゾート地、古都や水の都と、バスや列車を駆使して周遊した。娘は、今でもヴェトナムが大のお気に入りである。
2回の旅行とも、贅沢はしなかったが、時間のゆとりがあり、優雅と言えば優雅な旅行だった。先行き不透明な時代となった今を考えると、思い出が得られたことが、とても貴重で幸運なことに思える。
当然のことだが、旅行をしながら、現代のヴェトナムの地に、そして彼の地の人々に、戦争の影響を感じることは殆どできなかった。目に入るものは、群衆と車両の洪水。繁栄の象徴である。
もしかすると、当方の感知能力が鈍っているのかもしれない。普段、日本国内で接しているヴェトナムの若者が、戦争を積極的に語る場面に出会ったことはない。また、ヴェトナム人の友だちと交わされる話題も、もっぱらビジネスや日本語教育についてである。
このように、戦争がトピックになる機会は極めて乏しいから、感覚が薄れても仕方ないという言い訳も成り立つ。
さて、『ディア・ハンター』のヴェトナム最後のシーンは、サイゴン陥落である。1975年、その大事件は、東京郊外に平凡な毎日を送る少年の目には、遠い国のニュースとしか映らなかった。
偶然ながら、現在、ジャーナリスト・近藤紘一氏の名著『サイゴンから来た妻と娘』(1978年、文藝春秋)を読んでいる。20年ぶりの再読となる。
冒頭は、1975年のサイゴン陥落の場面。イメージが『ディア・ハンター』にダブる。日付は、4月28日。
また次の一文は、その1ヵ月ほど前の情勢を記したものである。
「三月二十三日、旧王都ユエが陥落した。」
2019年、娘と散策した古都フエである。蒸し暑い日、広大な王宮遺跡をのんびり巡った。陥落から44年後の、同じく3月下旬であった。
近藤氏のこの著作が刊行されたのが1978年5月。奇しくも、『ディア・ハンター』制作と同年である。
映画は、戦乱の中のヴェトナム人の姿をあまり追っていない。一方、近藤氏は、文章によって、この民族の生活と戦争との関わりをまとめている。
「ベトナム人(原文ママ)はもう何十年も戦争の中で暮らし、もう戦争を生活の一部としているように見えた。彼女(近藤氏のヴェトナム人妻)自身の思い出話のどの断片をとっても、それは戦争と結びついていた。日本軍の戦争、フランス軍の戦争、ベトミンの戦争、ゴ・ジン・ジェムの戦争、そして今の戦争ー。」(文春文庫P34)
また、「かつて(1978年から見ての)日本で花ざかりであったヴェトナム論、あるいはヴェトナム戦争論の共通の盲点(同上P96)」の説明として、ヴェトナムをはじめとするインドシナの国々の自然、風土の豊かさを表す各国民の労働姿勢を戯画化した「たとえ」を紹介している。
ヴェトナムは、「水と気候に恵まれているから、農民の仕事ぶりものんびりしている。水牛にスキを引かせ、田植えさえすれば、あとは稲の方が勝手に実ってくれる。」(同上P96)
近藤氏は、ヴェトナムをもともと「瑞穂の国」だとする。「たとえ」の紹介が続く。
「それでもベトナム人は勤勉だから『コメを育てる』という。同じ瑞穂の国でも隣のカンボジアでは『コメが育つのを眺める』、ラオスに行くと『コメが育つの音を聞く』だけで暮らしていけるそうだ。」(同上P96)
今日のヴェトナムは、周知のとおり工業国家として発展しているから、近藤氏の当時とはかなり状況が異なる。それでも、コメ、フルーツ、コーヒー、水牛の風景など、農業国家の横顔は残っている印象である。
つまり、当方なりに整理すると、ヴェトナムの人々はもともと、他のインドシナ諸国に似て、のどかな農耕生活を営んでいた。しかし、他人の土足に踏みにじられた時代が長く続いた。そして、戦争に打ち勝ち、その後は工業という新路線を得た。現在は、農業とともに複線化をはかりつつ、発展途上にあるという流れだ。
しかし、おそらくはヴェトナムのルーツは「瑞穂の国」なのである。
ここで、ハタと思い至る。マイケル・チミノ監督はやっぱり、ヴェトナムを描いていないなと。描いたとすれば、アメリカ国家に出征を強いられた移民たるロシア人たちの姿である。しかし、その描写さえも食い足りない。月並みな結論だが、彼は戦争がもたらす、ある側面を描いたに過ぎない。
コロナ禍に振り回されているせいか、アメリカのトランプ時代を遠い昔に感じる。ダナンが、2度目の米朝首脳会談の候補地にあがったものの、結局ハノイに落ち着いたのが2年前。かつてのヴェトナム戦争の激戦地、今では政治色薄い新興リゾート地となったダナンで話し合いが行われていたら、国際情勢はもっと明るい方向に転じていたかも。
戦場であったヴェトナムが、平和会議の開催国に浮上するとは。このアイロニーの出現は、「瑞穂の国」と喝破した近藤紘一氏には予想できても、マイケル・チミノ氏には無理だった。
「ヴェトナム=瑞穂の国」論には、当方の期待値も多分に含まれている。真に平和な国として、そして友好国として屹立してもらいたいという願望がある。
どうやら、我が心の内で『ディア・ハンター』の評価が下がってきたようである。それでも、当方これからも見続けると思う。その理由は、これが強力な“厭戦映画”だからである。
戦争は絶対嫌だ。この感覚をこれほど強く呼び起こしてくれる映画は、そんなに沢山はないのである。