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2020年12月 / 濫読脱出、悪あがき

 相変わらずの濫読スタイルが続いている。これは、中学生時代からの習慣。かれこれ50年、ほとんど不治の病だ。

 治癒には長期を要するので、完治を目指すとその前に私自身の寿命が尽きてしまう。

 だから、完全を求めず、改善していくしかない。来年は、カイゼン元年だ。

 原因、弊害及び改善のポイントは次のとおり。

 まず、近年の濫読の主原因は、本が安く手に入ることだ。「○○オフ」などの店で100円程度で掘り出し物が入手し易い。ネットでも、保存状態を気にしなければ目的の本が簡単に手に入る。「安い」が基準になるから、ジャンルがバラバラになり易い。これが濫読につながる。

 そして弊害は、濫読では「書を読むこと」が知識・論理の獲得に結びつかず、雑学的・娯楽的なものにとどまりがちになることである。さらに、厄介なのは本がたまることである。濫読は、関心分野の拡散だけでなく、量的問題ともつながっているのだ。手持ち冊数の増加は、家族の苦情につながる。

 また、お得な本を見つけ出すのに時間がかかることが、読書時間圧迫になる。安い本はないかと渉猟していると、アッという間に時間が経つ(これはこれで楽しいひとときなのだが)。

 改善方法は、webも含めて店舗訪問の頻度を減らす。そしてたまった本を少しずつ売る。いっぺんに処分しようと構えてしまうので、少しずつ売る……など。図書館の利用は続けるが、文庫本は傷んだものが目立ち、借りるのは単行本中心となろう。従って、蔵書を減らすには、安価で入手した文庫本、新書類の処分がポイントになる。

 電子書籍にすればよいという意見も否定しない。書籍の山は墓場に持ち込めないのだ。ただ、長年紙に慣れ親しんできていることから、電子書籍にはまだ少し抵抗感がある。一方で、電子でしか読めないもの、また巻数の多いものもあり、近い将来こういった「文明の利器」も採り入れたい。

 まだまだ書き足りない気がする。とりあえず、ここまで述べてきたことは、一種の対症療法である。肝に銘ずるべきは、濫読を生じさせる根本原因をどうするか、である。最大の問題は、自分の集中力・忍耐力の欠如である。
 
 弱い自分を克服し、読書の本旨とは「理解」であることをかみしめ、精読を心がけ、焦らずスローリーディングを意識していきたい。

 老眼も進んできた。残された時間で読める数量はだいたい分かる。寂しいことだが、そろそろ趣味の店じまいに向けて、準備開始である。