詩人リルケの考える虚構と本質
自然は現実を受け入れながら生きる。
一方で、人間は在るようで反映に過ぎない。
時たま人混みの中で空を見上げると、意識の方向が少しでも変わるような気がする。以前、舞踏カンパニー大駱駝艦の田村一行さんに取材をした時「あなたは誰?」という問いについて語ってくれた。「私は女性」「私の出身地は東京」「私はダンサー」つまり、人間は外的な事物に捉われている。だから、空を見ると平然とした顔で流れるままに生きているような、ゆったりとした時間が流れているように感じる。自然は、“外的な事物”に捉われることのない、人間の唯一できないことであり、対照的な存在なのかもしれない。
昨今、SNSの流行に取って代わり、自分と向き合う事が少なくなっているように感じる。偽りの自分を発信することへの嫌悪感、自分もその奴隷と化していることへの惨めさ、さまざまな感情が入り混じる。都会に出れば、同じような服装を身に纏った人たちが、深いようで浅い言葉をつらつらと並べて暇を持て余している。けれど、自分もその一部にいて、同じように生活しているのだ。
そんな悩みを抱えるうちに、オーストリアの詩人・リルケ(1875-1926)の著書『若き詩人への手紙 若き女性への手紙』と彼の詩集がまとめられた『リルケ詩集』に出会った。彼の多くの作品では、まさに自然と事物によってとらわれた人間の対象が描かれている。その中の一つを『初期詩集』より抜粋。
この詩では、事物を本質とする「私」から見た、虚構の「彼ら」について書かれている。おそらくここでいう「私」はリルケ自身で、「彼ら」は大衆だ。「私はひとびとの言葉を恐れるー」から始まったこの詩は、リルケは世に惑わされた人々が発する言葉が実在性を持たないものとして捉え、それがいかにして有毒であるかを述べている。
その具体例が次の行「彼らは何でもはっきりと言い切る、これは犬だ、あれは家だ、ここが始めだ、あそこが終わりだ、と。」で表されている。彼らは何をもって犬、家としているのか。何をもって始まり、終わりがわかるのか。「彼らの庭や地所はそのまま神に接している。」では、「全ては神のみぞ知る」と言われているように、彼らは神の如く疑問を抱くことなく言葉を発する。あまりにも自分と事物の距離が近すぎるのだ。
だからこそリルケは事物という本質のみを信じ、そして事物の声を聴くのが好きなのだ。だが、事物は彼らの言葉によって変遷し、死んでいくという結末で詩は完結している。
本質を忘れてしまった人間の様子を客観的に捉えたこの詩は、1905年初期の作品とは思えないほど、現代に当てはまる。長きに渡っている問題であるからこそ、簡単に抜け出せることのできない問題であり、もしかしたら永遠と悩み続ける問題なのかもしれない。ただ、自分への戒めの意味も込めてこの詩を心に刻みたい。
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