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ほのぼの日和#8 怒り

前回の投稿からだいぶ間が空いてしまいましたが、ウガンダにきて280日が経とうとしています。今回は、だいぶ学校での生活にも慣れてきて、教員、先生について感じたことを共有したいと思います。

私は大学で、小学校と中学校の免許を取得し、大学の附属学校で教育実習をしました。そしてそのまま大学院へと進学し、今に至るので教壇に立った経験は教育実習のみで、ウガンダに来てからがはじめてです。といっても、私は他の方々のようにクラスを受け持ち、毎日のように授業をしているかといわれると、、、そうではないと思います。TTとして現地の教員の授業を見学し、学ばせてもらい、実験の準備を手伝ったり、時に授業をしたりという風な感じです。

とはいっても、中等学校に赴任してからもう半年は経過しており、教育実習での期間はとうに超えました。生徒のこともそれなりにわかるようになり、この子は勉強に対して熱心とか、よく話しかけてくれるとか、関係性がつくられていったように思います。もう彼らは私にとって、ただの生徒ではなく、何かあれば心配するし、できるだけいい成績をとってほしいし、そのためにできることはしてあげたい、そんな存在になっていました。

そんな中、生徒にレポートを書かせるという課題が与えられ、その採点を担当することになりました。一応採点の決まりというかルールのようなものはあるのですが、それだけだと教員個人の基準になってしまうので、私は公平性を保つためにもルーブリックを作成し、それに沿って採点しました。そして、生徒に答案を返しました。生徒にとっても、正誤判定だけでない方法で成績評価がつけられるというのが初めてだったこともあってか、クレーム、ブーイングの嵐でした。「マダム、マダム!なんで私の点数はこれなの?彼女はこの点数なのに!」次から次へと、質問攻め。うまく説明できなかった、その時間もとれなかった私にも責任はあるのですが、私がここで引き下がって点数を変更してしまうとそれこそ公平性は保たれないとおもって、毅然とした態度で説明しました。しかし、彼女らは納得せず、何度も私に文句を言い、現地語で(私にはわからない)おそらく私の採点は不公平だ、間違っていると言っていました。正直さすがの私も、カチンときました。英語でかなり強めに、こうだから、こうなのと言い返しました。もちろん納得してくれた生徒もいましたが、依然として不服そうな表情で私のことをみていました。

また、ある時生物の授業で実験をしていたときでした。その時は、現地の教員はおらず私一人でした。危険な試薬ではないものの、教卓に置いていた試薬を私の目を盗み、数名の生徒が勝手に試薬をとろうとしていました。私はすぐに気づき、何してるのかと注意しました。数名は慌てて試薬を元に戻し、自分たちの机に戻ろうとしましたが、いつも生意気に私の英語をまねてくる生徒がそのまま試薬を持って立ち去ろうとしました。私は彼女の腕をつかみ、試薬をもぎ取りました。兄弟げんかのような感じを覚えました。私は自分の行動に正直驚きました。私にとって、生徒に自ら触るということはほとんどない、あまりしないほうがいいという感覚が常にどこかにあったからです。何も考えず、私は彼女の腕をつかんだ、とっさに手が出たのです。少し大げさと言われればそうなのですが、無意識に手がでた自分が恐ろしくなりました。

怒り、叱る。
私は先生方が、生徒を本気で叱る様子を見て、大学時代の友達が教員になって叱ったという話を聞くたび、私にはできないな、先生になったらできるのだろうかと思っていました。生徒に叱る、叱ることができるまでの怒りの感情に達したことがなかったからなのでしょうか。そこまでの感情を私は教育実習の間だけでは、生徒に対して抱くことがなかったのでしょう。怒りではなく、あきれが強かったのかもしれません。
ですが、今私は生徒に怒りの感情を覚えたのです。理科室での一見は怒りとはまた少し違うかもしれませんが。

そこで私は生徒との関係性が今と教育実習の時とでは違うからなのではと思いました。私は教員、教師、先生というものに興味があって、そこから大学も選び、研究関心もそこにありました。今まで、私は先生というものはやはりどこか“聖職者”的な側面があって、先生は子どもたちを導くそういった存在でなければならないと思っていました。でもウガンダでの教壇に立った経験から、私は先生もまぎれもない人間なんだと思いました。いたって当たり前といわれれば、そうなのですが、先生と生徒は人間同士であって、先生は先生である前に1人の人間、だから生徒に対して、自分でも理由がうまく説明できないほどに怒りがわいたりすることもあるんだと。それは生徒が悪いことをしたのかもしれないし、自分の体調が悪いとか複数の出来事が重なっていたからなのかもしれないし、生徒の性格や先生の性格が関連しているかもしれないし。

今までは先生なんだから、そういう個人的な感情で生徒を叱るなんて、と思っていました。それが間違いだとも思いませんが、すべてがこどものためを思って、これをこどもがしたら将来こうなってしまうからとか頭でぐだぐだ考えた末に、叱るのではなく、やっぱり人間同士のぶつかりあいだから、生徒の行動によって先生の感情が揺さぶられるから(いらっときたりするから)熱量を持って叱れるのではないかと。その熱量はただの今日会ったような他人には生まれない。毎日のように顔を合わせ、授業をし、たわいもない会話を交わした仲だからこそ生まれる熱量なのではないかと。

私は「先生」を、オーバーに言うと全知全能の神のような存在として見ていたのかもしれません。でも、全知全能の神なのではなく、一人の感情を持った人間が教育を行うとしても、人を教え導くという教育という行為は決して軽いものではなく、その責任は大きいことに変わりはないと思います。人間として、そして、教師という役割が負う責任、その2つのせめぎあい。今の私には、そのどちらが大事でどうあるべきか、答えはだせないし、わかりません。今の私は、教師と生徒、それは感情を持った人間同士の関わり合いという、まるで当たり前のことに気づいたというだけです。

改めて、教育っておもしろいなとおもいました。まだ新米の私にはわかっていないことだらけです。

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