見出し画像

ほのぼの日和#5 体罰

1月終わりごろから、任地(ウガンダのムベンデ県というところ、首都から車で約2時間半)の学校で活動を開始しました!
そこからは体調を崩してしまったり、転んで携帯を壊してしまったり、、、いろいろありましたが、徐々に生活には慣れてきました(水くみは大変ですが笑)。

今回はとある日の出来事について書いていきたいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今日は2回目の授業、、、かとおもいきや、、、始まる前からハプニング勃発。前の数学の授業で1冊教科書がなくなったようだ。先生たちは生徒が盗んだのだと主張。私は、間違ってどこかにまぎれただけなのではと思っていた。なかなかみつからないため、生徒を全員外に出し、何人かの生徒を指名して、捜索。私も鞄の中、机の中まで探したけど見つからない。鞄の中にそのままフォークとか皿入れるのどうなんだろうと思いながら。
とうとう先生は鞭(木の枝)を3本持ち出し、「Kneel Down」と叫び生徒たちを膝立ちさせる。生徒たちは急におびえた表情で、「Masterやめて」と訴える。「私はあなたたちを愛しているが、悪いことをしたらぶつ」。木の枝を振り回した後、おそらく全員で探して見つかったらぶたないと言ったようだ。子どもたちは一目散に探しに行った。すると、ある班の机から1冊教科書が出てきた。その班のおそらくリーダーの子はかなり沈んだ顔をしていた。
悲劇というか、悲しい出来事はそこから。先生が生徒を黙らせるために、木の枝でおもいっきり机をたたいていたときに、木の枝の先が女の子の親指の先におもいっきり当たった。女の子は痛みにかなり苦しみ、涙ぐんで、指を抑えていた。その先生も悪気はなかったため、謝って頭をなでていたが、ただでさえもバシっと激しい音がするのに、それが指の先にあたるなんてとんでもない痛さだろうと思う。私は彼女に大丈夫かと聞くことしかできなかった。爪のところが内出血しているようにもみえた。
その先生は、私が今まで見学した中で一番と言えるぐらい、生徒が楽しんでいた授業をしていた先生で、ユーモアがある先生だったからか、指導の最中にも生徒が笑う場面もあったのだが、何人かの生徒は常に顔がこわばり、ぶたれることに怯え慄いている表情だった。きっとぶたれることの痛さを知っているからなのだろう。先生がぶとうとすると、かなり必死にぶたせまいとする。その表情が私の中に、かなり深く刻まれた。木の枝を持っている先生は見かけたことがあったし、まさに本で読んだ通りの体罰の場面であったのだが、初めて目の当たりにしたため、私は想像以上に気が動転した。心臓がバクバクいっていて、そんなことは絶対ありえないのだけど、自分もぶたれるのではないかと思った。ぶたれることを止められない自分を無力に感じた。初めて会った生徒が、私に先生はぶつのかと聞いてくる意味がやっと理解できた。

ウガンダでは、体罰は当たりまえ。教員でない人も、ウガンダではいうことを聞かない子がいたら体罰をするからと平然とした顔で語っていた。
生徒に近くの木の枝をとってこさせて、葉を取り鞭を作らせたり、教科書や手で生徒の頭を小突く先生もいる。どこからどこまでが体罰で体罰でないのかはわからないが、むち打ちは日本では絶対に見ない光景だろう。
ウガンダの小学校に勤務する先輩の協力隊員は、児童から教室が騒がしいのは先生が体罰をしないとわかっているからだと言われ、次の授業の時に教卓の上に、鞭がおいてあったそうだ。
そんな私も、中学生の頃は体罰容認派だった。なぜかというと、私の経験から、体罰がなければ静まらない生徒がいて、教室はそれどころではなくなるからだ。先の児童のように、自分が授業を受けるためには先生に体罰または、体罰をするという脅しによってその生徒をおとなしくさせてもらうしかなかったのだ。
そのころの言い分としては、体罰がなければ間違ったことをしているということが理解できない生徒もいるから、たしかそういったことを先生に主張して、それは教員採用試験では絶対に言ってはいけないと言われたことを覚えている。

なぜ彼らは体罰をするのか。きっとそこには、「体罰は間違った行為だからすべきではない」だけでは片付けられない、彼らなりの「理由」があるのではないかと私は思う。体罰を行った先生は、生徒を愛していると言っていた。そこにはたしかに生徒愛がある。
その「彼らなりの理由」を私は知りたいと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?